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【イベントレポート】びわこ学園創立50周年記念事業「生きることが光になる」

  • 大平 眞太郎滋賀県社会福祉事業団企画事業部 主任自立生活支援員
【イベントレポート】びわこ学園創立50周年記念事業「生きることが光になる」

2013(平成25)年9月21日(土)にびわこ学園創立50周年記念事業「生きることが光になる」が開催されました。

糸賀一雄、池田太郎、田村一二の三氏によって創立された近江学園は当初、児童養護施設(戦災孤児など、何らかの理由で親の養育を受けられない子ども達へ生活と教育を提供する施設)と知的障害児施設(知的に障害のある子ども達へ生活と教育を提供する施設)としてスタートしました。その後、近江学園の先駆的で独創的な実践を聞きつけ様々な障害のある子ども達が福祉的な支援と教育を求めて入園してきました。その中には重度の重複障害(知的障害と身体障害を併せ持つなど)がある子ども達や日常的に医療的なケアが必要な子ども達もいました。近江学園ではそのような子ども達に試行錯誤しながら生活と教育さらには医療を提供してきました。その結果、より専門的な「医療と福祉と教育」を提供し子ども達の発達を支援するための場が必要とされ、びわこ学園が日本で二番目の重症心身障害児施設(病院と福祉施設の機能を併せ持つ施設)として1963(昭和38)年に創立されました。そして初代園長には、近江学園の医局を担当していた岡崎英彦氏が就任されました。

びわこ学園は重度の障害のある子ども達の「生活」を充実させることを第一として、糸賀一雄氏が残した思想「この子らを世の光に」を背景としながら、どんな重い障害を持っていたとしても「ありのままに生きることが光である」として施設の内外で様々な取り組みを行ってきました。

そのびわこ学園が今年、創立から50周年を迎えました。今回の記念事業ではびわこ学園50年の歴史を振り返るとともに、今の社会におけるびわこ学園の在り方について、シンポジウム、事業報告、記念講演を通して語られました。

本稿では主としてシンポジウムについてレポートします。

始めにコーディネーターであるびわこ学園医療福祉センター草津施設長の口分田氏より、シンポジウムの趣旨としてびわこ学園50年の取り組みを振り返りながら、「生きることは光(だった)か?」「生きていることはしあわせか?」「光にするにはどうあれば良いか?」を問いとして議論を進めることが提起されました。それを受けて、「重症児者への支援とは」というテーマで各シンポジストからこれまでの活動とそこで見た「生と光」についての報告に移りました。

どんなに障害が重くてもできること・やりたいことはたくさんある

まず一人目は國森康弘氏。國森氏は1974年、兵庫県生まれ。京都大学大学院経済研究科修士課程修了後、神戸新聞での記者を経て、イラク戦争を機にフォトジャーナリストとして独立。イラク、ソマリア、カンボジアなどの紛争地や経済貧困地域を訪れて取材。日本国内では戦争体験者や野宿労働者、東日本大震災被災者への取材を重ねてきた。近年は「あたたかで幸せな生死を伝えたい」と、看取り、在宅医療、地域包括ケアの撮影に力を入れている。

「私は写真家なのであまり多くは話しません。できるだけたくさんの写真をお見せしたい。そして写真を見ることを通じて光を感じてもらいたい。」そんな言葉から報告が始まりました。

2011(平成23)3月11日、東近江市の高齢者宅のテレビ中継で東日本大震災を目の当たりにした國森氏は、翌12日には東北入りした。映し出される震災直後の風景(津波で何もかも流された街、親の死に手を追わせる息子、懸命な救助活動)。國森さんは救助されていない人がいるかもしれないと誰も踏み入っていないところを中心に歩いた。しかし見つけられたのは既に亡くなっている人ばかりだった。

さらに写真は続きます。津波直後水が引かないままの街、自衛隊のボートで救助される人々。亡くなった人の命、助かった人の命がこれからどのように繋がっていくのかそれを見続けるために、國森氏は今も東北に定期的に通っています。

そんな活動の中で出会った進行性難病を抱えるシュク子さん。徐々に体の自由が失われていく中、震災前にあえて家族を離し、一人で生活をしている。今はかろうじて指の先を動かすことができる。彼女は24時間の介護と在宅医療を受けながら、医療や福祉に興味のある学生に自分の生活を通じて様々な発信をしている。
そしてもう一人。小学校四年生の女の子カレンちゃん。震災後、吐き気が続く。精神的なストレスが原因かと思われたが、念のため検査すると脳腫瘍が見つかる。緊急手術するも完治する見込みがないと診断され、医師からは余命幾ばくもないとの宣告を受けた。しかし本人は大好きな家族がいる自宅での生活を選択。「一ヶ月半後、毎年行っていた大好きなディズニーランドへ行こう」とカレンちゃんとお母さんは約束をする。彼女は生きました。そして、ディズニーランドへの旅。医療関係者を始めとするたくさんの支援者に助けられて、彼女はディズニーランドへたどり着く。園内を散策中、血圧が低下。救護室に運ばれる。そこに大好きなミニーちゃんがやってくる。たちまち回復する血圧。彼女の生きる力、輝きがあふれる瞬間だった。ディズニーランド旅行を無事に終えた二日後に彼女は自宅で眠るように亡くなった。お葬式には友だちがたくさん来て彼女にお別れをする。「世界一かわいい棺桶にしよう!」と棺桶一杯にかわいいシールが貼られた。

場所は変わって東近江市永源寺地域。ここは診療所が中心となって在宅医療体制が手厚い地域です。スクリーンには田園風景とそこで暮らす人々の写真が映し出されます。

この地域でずっと暮らしてきたタケコおばあちゃん。タケコおばあちゃんは亡くなる一週間前に自ら入れ歯を外してご飯を食べなくなった。亡くなった後、娘さんにお化粧をしてもらうタケコおばあちゃん。孫のレンちゃんがおばあちゃんとのお別れをする。おばあちゃんの顔にかけられた白い布をとり、顔をなでたり、手を握ったり。レンちゃんはタケコおばあちゃんの死を感じ、受け止めていた。
国森氏はレンちゃんが通う小学校に通う子ども達にアンケートをおこなった。「人の命はリセットできる?」と訊ねられた子ども達のうち3割は「できる」と回答する。その問いに対してレンちゃんは「人は死んだら生き返らない。動かなくなって冷たくなる。でも人は心の中で生き続ける。」と答えた。
畑仕事をするおばあちゃん。本人はなすを育ててるというが、畑には何も植わっていない。近所の人が田植えをしながらそのおばあちゃんを見守っている。
認知症のおばあちゃん。ときどき家族に黙って地域を散歩する。しばらく散歩したところで近所の人が家までつれてきてくれる。家族は地域の優しさを信頼し安心している。
病気のために要介護度の高かったヒサコおばあちゃん。ひ孫が生まれると、世話をしたいとどんどん元気になる。ついには介護度がつかなくなってしまった。
認知症のある一人暮らしのナミばあちゃん。最後まで自分の家で過ごしたいと言っていた。心配する娘の提案で同居にすることになる。不慮の事故による怪我が原因で急激に衰弱。意識も混濁するも、生まれ育った地域に帰りたいと訴えるナミばあちゃん。診療所や地域の人の助けを得て自宅に戻る。自宅での生活を再開後、國森氏がナミばあちゃんをたずね別室で息子さんと世間話をしていると、息子さんが何かに引き寄せられるようにふと立ち上がり、ナミばあちゃんのそばへ寄る。息を引き取るナミばあちゃん。息が止まった後、何かを感じて別室にいた娘さんが駆け寄ってくる。その時もう一度息を吹き返すおばあちゃん。娘さんの「ありがとう。もうええよ。」の声で再び息を引き取る。ナミばあちゃんの頬には涙がつたう。「これでよかったんやね」と笑顔で泣く娘さん。命の大きな輝きを感じた時間だったそうです。國森氏はこの間シャッターを切ることができなかった。

お話が始まってから40分、国森氏の前半の報告が終わりました。会場は國森氏の写真に見入り、国森氏のお話に聞き入っていました。そして涙を流す人も少なくありませんでした。

重症心身障害者は心・情緒の存在である

二人目は日浦美智江氏。日本社会事業学校研究科卒業後、1972年横浜市立中村小学校訪問学級指導講師、中村養護学校指導講師を経て、1983年重症心身障害を持つ人のための障害者地域作業所「朋」を立ち上げて指導員となる。1986年社会福祉法人「訪問の家」理事・知的障害者通所更生施設「朋」施設長、専務理事、理事長を歴任。2005(平成17)年からは社会福祉法人十愛療育会の理事長に就任。2012年3月まで務められました。

日浦氏からは障害のある子ども達とであってともに歩んでの40年、それを振り返って何をしてきたのか、今何を考えているのか?について語られました。1972年横浜市で、どんなに障害が重くても学校教育を届けようという取り組みが始まり、日本で初めてできた横浜市立中村小学校訪問学級から日浦氏のソーシャルワーカーとしての人生が始まりました。

訪問学級で出会った小頭症をもつヒロミさん。小学校入学によって母親と2人だけの生活から訪問学級での集団での過ごしに変わった。ヒロミさんはさまざまな体験をしながらゆっくりと時間をかけて母親以外の人との生活に慣れていった。他の子ども達も様々な重い障害を持ちながらも、学校での教育を通してそれぞれのスピードでしっかりと成長していく。
当時、重い障害がある人でも義務教育である中学校までは通えたが、中学卒業後は、施設に入所するか、自宅のみで過ごすかという選択肢しかなかった。障害のある人の暮らしはそのままで良いのか?学校で培ってきたみんなの成長を生きる力をいかせる場がない。教育は「社会の中で生きていく」ための練習。重い障害のある人たちにはそれを活かせる社会がない。そんな疑問と腹立ち(悔しさ)が日浦さんのエネルギーとなった。そして支えてくれたのはみんなの笑顔と家族の思い。今日も一日、家の中だけで過ごすと思って開けるカーテンと今日も外に出かけようと思って開けるカーテンにどれほどの違いがあるか。「みんなが通える場をつくろう。社会を変えよう。」そんな経緯で1983(昭和58)年障害者地域作業所「朋」が立ちあがった。
朋は定員が10名程度、古い民家に最低限の改装をしてのスタート。たちまち手狭になり、設備面でも老朽化した家屋が車いすの重みに耐えられない状況だった。そこで、横浜市への働きかけ土地を市が提供することになり、新しい施設の建設に向けて動き出した。しかし地域住民による反対運動がおる。住民への説明会を行うと、「施設を建てることに反対じゃない。でもここじゃなくても良いでしょ。」といった意見が出される。そんな言葉に象徴されるように、根拠のない反対の声がほとんど。そんな中、ある住民から一つの質問が出る。「施設ができたら散歩をしますか?」日浦氏は「出たいと思います。」と答える。そしてその住民は「どんどん出てください。そしてお友達になりましょう。」と反対住民の前で言ってくれた。日浦氏はこの人をこういう人を信じて地域で頑張っていこうと思った。その住民説明会の数日後、自治会長名で地域住民の施設建設へ同意が得られた。そして1986(昭和61)年知的障害者通所更生施設「朋」が開設されました。
朋の設立当初からのメンバーヒロミさん。学校を卒業するまでほとんど声のでなかったヒロミさん。いまでは大きな声でお父さんに散歩にいきたいと大きな声でアピールする。お母さんはかつて「一度で良いからお母さんって呼んでもらいたい。」と話していた。日浦氏はある時お母さんに問いかけた。「お母さんって呼ばれた?」「もう毎日毎日うるさいくらい」とお母さんは答えます。そんなヒロミさんが成人を迎えた日に「生きてくれと願ってここまで来た。今晴れ着を着てここにいる娘は世界一親孝行だ。ヒロミはゆっくりと地球の裏側から表側に出てきたんだね。朋(での取り組み)のおかげ。」とお母さんは話す。
小学生との交流会であいさつをしたいと立候補した重度の障害のある男性。体中の力を使って「あーあー」と一生懸命声を出して思いを伝えている。小学校の先生は小学生達が障害者に何かしてあげているという交流に不満を持っていた。でもほんとに与えられていたのは自分たちの方なんだと気づく。「子ども達がいっぱい朋に行けるようにします」と先生。この小学校との交流は28年間ずっと続き、交流した小学生は五千人を越えた。
地域のお祭りには朋のみんなが参加する。ある年、自治会長さんが「車いすがたくさんある。これがウチの町のお祭りだ。朋が町を変えてくれた。」と話してくれた。
地域で暮らし続けるために。朋ではケアホーム(障害のある人が数名で支援を受けながら生活する福祉サービス)もつくっている。40年前日浦氏がに出会った男の子が、成人になってそこで暮らしている。重い障害のある彼がそのような生活ができるとは夢にも思わなかった。多分ダメだろうなんて言葉が合う人はいない。誰にでも大きな可能性があるということを彼から学ぶことができた。
朋は年に一回お祭りを開く。地域の人を中心に二千人以上の人が訪れる。お祭りのあいさつの中で朋がある区の区長さんが「朋のある地域から優しさが発信されている」と話された。また、同じ席で自治会長さんが「最初はいろいろあったけど今はみんな一緒だね。これからも遠慮なくどんどん好きなことをやってね」と話された。

日浦氏は前半のお話の最後に重症心身障害を持つ人と関わる職員の役割について以下のように話されました。

重症心身障害者は「心・情緒」の存在である。知能指数では判断できない人と人とのつながりの中にその存在がある。一方で自ら動くことができない重症心身障害のある人は、「待っててね、いきましょう」など介護者の都合でどうにでもなってしまう。そうではなく介護者が相手(重症心身障害のある人)の土俵にのること、本人が持つ無限の可能性を信じること、そのためには本人を知ろうとする努力が大切である。人は人の中で生きることで人間になる。そのために福祉施設の職員がしなければならないことは、障害のある人の存在を知ってもらう・活動場所を拡げること。さらにひとり一人の物語を語ること。そしてひとり一人の障害のある人への支援を通じて、社会を変えていくことに努力しなければいけない。

生活を値切ってはダメなんだ

三人目は中村隆一氏。中村氏は1977(昭和52)年、京都大学を卒業後、滋賀県大津市役所で乳幼児の発達相談に携わります。2006(平成18)年、大津市役所を退職。その後大津市立知的障害児者地域生活支援センターにて、主として成人期の発達相談を担当。同時に立命館大学応用人間科学研究科教授に就任、修士課程の学生への指導をされています。

中村氏は自身のびわこ学園への思いと、二十数年におよび乳幼児への発達相談を通しての療育の取り組みから様々なお話と「生きること」についての問題提起を私たちにしてくれます。

まず中村氏は問いかけます。「なぜびわこ学園は必要だったのか?」

近江学園では施設の中に園内学校として学校教育が存在し続けた。びわこ学園ができ近江学園から移った子ども達は、それまで近江学園で受けられていた学校教育を受けられなくなった。それでもびわこ学園は教育と福祉と医療を結びつける場所としてその目的が掲げられていた。そこに中村氏はギャップを感じていたそうです。しかし中村氏は「発達保障」の概念形成の歴史について学び直すことで、びわこ学園の取り組みがどれだけすばらしいものであったかを再確認することができた。

中村氏は不就学(教育を受けられない)児童の数の推移を示した表を見ながら次の説明をされます。

戦後、社会の状況が進歩することで不就学の問題は解消されていくものだろうと思われた。しかし実際には1960年あたりから不就学児童の数は急上昇していく。これには障害のある児童への就学猶予などが影響しているのだろう。さらには、1960(昭和35)年精神薄弱者福祉法により障害児入所施設の入所条件に就学猶予が組み込まれ、近江学園においても園内学校を存続させることが難しくなっていった。すなわち、障害のある子どもは保護の対象でしかない、教育の対象ではないとされた。しかし、当時、重症心身障害のある子ども達を保護する施設すらなかった。そんな時代背景の中でびわこ学園が設立される。びわこ学園設立には、このままでは重症心身障害のある子ども達の居場所がなくなってしまう。そんな追いつめられたギリギリのところでの決断であったのかもれない。そのようなことを前提としながら、今回のテーマである「生きることが光になる」について考えたい。

続けて「生きる」を考える時の視点について説明されます。

「生きる」は単なる生命があることなのか?ただあることを「光」と言ってよいのか?という問いがある。英語では「生命=LIFE、LIFE=生活、人生」などと訳される。「生きることが光である」と言う時にどこに焦点を絞るのか?生きる事自体が光であるという議論も成り立つ。19世紀を生きたフランスの生理学者のピシャは「生命は死への抵抗の総和なのだ」と定義している。人は自然と生き死に向かっていくのではなく、死への抵抗という能動的な取り組みが生であるというところに注目する。ただ命があるということではない。今問われているのは単に生命体としての「生きる」ではないだろう。

続けて中村氏が初めてであった気管切開をしている女の子トモちゃんとそのお姉ちゃんが書いた作文にまつわるエピソードを紹介してくれます。

トモちゃんは生後6ヶ月で難病を発症し、数年間入院した後、家族の介護を受けながら自宅で生活しています。そんな生活に寄り添ってきたお姉ちゃんが書いた作文の紹介をされます。この作文は全国障害者問題研究会が発行する「みんなのねがい」という雑誌に掲載されました。中村氏はこの作文から重い障害のある妹の幸せについて考えるお姉ちゃんの心の動きを推察します。

【トモちゃんが幸せだったら】13歳ミサ子
ともちゃんは幸せ?
お姉ちゃんはともちゃんが幸せだったら、幸せです。ともちゃんが病気になってしまったとき、(私は)まだ小さくて全然分からなかったけど、いまになって少しずつなんか分かってきて、少しつらくなったけど、トモちゃんがこの生活で幸せなのなら私も少し安心が持てる気がします。
これからも人生長いから一緒に頑張ろうね。みんなで大きな応援をしているよ。だから自分のためにもみんなのためにも頑張ろうね。私はこういうの(この手記のこと)を書くというのは嫌だったけど、トモちゃんが人に知ってもらいたいと思っているのなら、私もみんな頑張っているということをいろんな人に知ってもらっていいような気がするよ。これからもよろしくね。
素直にお姉ちゃんとしての心のゆらぎが見て取れる。生きること自体が大変そうな妹、妹の世話で大変なお母さんそんな2人を見ていると「トモちゃんは幸せ?お母さんは幸せ?」と問いたくなる気持ち。お姉ちゃんの尺度では幸せとは言い切れない状況にあるお姉ちゃんに、このような文章を書いてほしいということはもしかしたら残酷だったのかもしれない。でも、生きる営みが能動的で主体的であるとすれば、その人なりの幸せがあるのだろう。だからどんな障害のある人も生き続けているんだということにお姉ちゃんは気づくことができた。それが分かった時に「じゃあ自分は幸せなの?」と自分に問いが跳ね返ってくる。でもともちゃんが幸せなんだったら私も幸せということばで切り返すお姉ちゃんがすばらしい。
トモちゃんへの訪問療育を始める時、主治医からは「訪問してもできることはないですよ」と言われた。確かに3年の取り組みの中で、何かができるようになったということはない。
ある時、訪問での取り組みの中で気づいたこと、訪問することで本人の覚醒を促すことで、唾液の分泌を多くしてしまい、お母さんの吸引の手間を増やしてしまっているのではということに気づいて、愕然とした。(通常、唾液は食道に流れ込むが気管に流れ込んでしまうことがあるため、吸引機などで吸い込む必要がある。)でもよくよく経過を見ていくと、トモちゃんの吸引回数が減っていた。舌を何度も突き出してよだれを出すトモちゃん。よだれを受けるためのタオルはすぐにビチョビチョになってしまう。でも、結果的に吸引する回数は減っていた。トモちゃんなりにより良く生きる努力をしているのではないかということに気づいた。そんな努力をしているトモちゃんを自分たちが応援しなくてどうするんだという思いに至った。

次に1989(平成元)年、国連総会で採択され、1994(平成6)年、日本も批准した子どもの権利条約を引用して、障害のある子どもが持つ人生を享受する権利について話されます。

子ども権利条約 23条 障害のある子どもの権利の原文には「enjoy」という言葉が含まれている。日本政府の訳にはその言葉が十分に反映されていない。直訳的に訳するとすると次のようになる。「障害のある子ども達は人生をその子らしく全面的に楽しまなければならない。」これは、障害のある子どもが、ただ、生きるためだけに存在するのではない。また、障害のある人たちは苦労するために生まれてきたのではない。文字通り楽しい人生をおくる権利があるということ。これは、糸賀が戦後の日本で近江学園において取り組まれたことが21世紀にバトンタッチされていることの一つであると思う。

中村氏は前半の最後を「生活を値切っては行けない」という印象的な言葉で結ばれます。

1990年代、滋賀県の大津市では療育教室が市内に一カ所だけであった。本当は5日間通いたい子もスペースがないために週2回3回しか通えない。体調が整わなければ毎日通えないかもしれないけど、通いたい時に通える毎日空いている通園施設をつくりたかった。そうやって生活を値切ってはダメなんだ!  たくさんの人が関わることの意味(社会的に支えることの意味)を大事にしていきたい。どんなに重い障害があっても、学齢期を迎えることが目標にしていた。思春期を迎えてくれることを目標にしていた。
2000(平成12)年、大津市立やまびこ総合支援センターが完成。広いスペースが確保され、5日間通所が実現した。それ以外にも大津市内に2カ所の療育施設が増設された。その結果、それまで少なからずあった園児のお葬式が、2000年以降ない。みんな小学校に送り出せている。生活を値切らなかった結果だと信じている。

コーディネーターの口分田氏より、前半を振り返り後半に向けたテーマについて三氏に投げかけます。「前半ではそれぞれの話から生きているということ、そこに光を感じたという報告を三氏からしてもらった。後半はびわこ学園に期待することとして、それぞれからの提言を頂きたい。」

「地域の中で完結する」

國森氏は再び多くの写真を映しながら、そこに言葉を添えていきます。自然の風景、東近江市永源寺地域で暮らす人々の写真が映し出されます。

行き過ぎた(発展しすぎた)社会。それは弱肉強食の世界と言える。1%の人は富んでいるが、99%の人は飢えている。しかし人も大自然の産物なのだ。あるがままで存在するだけで光り輝くことができる。人には個としても、総体としても命を伝えていく役割がある。
高齢者と障害者の垣根は無くなっている。効率を求める社会では、生産できない人は隅に追いやられていく。非生産者と言われる人の輝き。その人の内に宿したエネルギーのほとばしりを感じる。人は旅立つ(亡くなる)ときは表面的にはできることが少なくなる。でもその存在に神々しさを感じる。進行性難病を持つナルミさんとヒデおばあちゃん。ヒデばあちゃんから手渡された生きる力。死はエネルギーが無くなっていくものなのか?死に向かっていくことでうちに秘めたエネルギーは高まりを見せる。

続けて國森氏がびわこ学園医療福祉センター草津と重症心身障害者が暮らすケアホームを訪問して撮影された利用者と寄り添う支援者の写真が次々と映し出されます。

ケアホームで暮らすケンジさん、自分の生活を自分でつくっている。重度の障害があっても内側から湧き出る光。それを感じ取れる人の存在。光に寄り添う支援者達の輝き。豊かな社会とは、障害のある人、高齢の人、誰もが寄り添って暮らせる社会ではないか。施設が自己完結せずに、地域に存在感を発揮してほしい。そうできるように私たちは変わっていかなければならない。障害者、高齢者が地域の真ん中で暮らしていけるように、そんな町をつくっていけないか。地域の中で暮らし、命のバトンをつないでいく。町の中心に福祉を据えようとしている取り組み。地域の拠点としての福祉施設。施設の中でも外でも地域の中心でびわこ学園自体が輝ける存在になってほしい。施設の中ではなく地域の中で完結していくことを目指してほしい。

このような言葉を写真に添えて國森氏の提言は結ばれました。

「光」と共に歩む社会

日浦氏は朋に通う一人の利用者さんを紹介しながら提言されます。

生まれてからなかなか笑顔を見せないユウ子さん。お母さんがあんまり笑わないので憎たらしいと言ってしまうほどだった。朋に通うようになってたくさんのはじける笑顔を見せてくれるようになるユウ子さん。特に綺麗なものを見ると笑顔があふれる。そんなユウ子さんとテッペイ君の出会い。中学生のボランティアとして朋を訪れたテッペイ君(茶髪にネックレス・ぶっきらぼうで、学校嫌いの男の子)。ユウ子さんはテッペイ君を見た瞬間に笑顔を見せした。ボランティアを終えて帰るテッペイ君が日浦氏に一言「人間は形を見るんじゃない、心をみるんだ。ぼくはここでなら自分でいられる。」日浦氏は思わず「スミマセン。」と謝まってしまう。テッペイ君の中学校の卒業式でユウ子さんがお祝いにいったところでテッペイ君と再会。ユウ子さんに何度も「ありがとう、ありがとう」とお礼をいうテッペイ君。その後、テッペイ君は高校に入ってもユウ子さんのもとを訪れる。学校のテストのこと、バイク屋になりたいという将来の夢をユウ子さんに話す。2人は渋谷にデートに出かける。ユウ子さんの呼吸の状態、食事が難しくなっていく。高齢のお母さんによる介護も限界が近づいて来たこともあり施設に入所することになった。しばらくしてお母さんが突然亡くなってしまう。ユウ子さんにお母さんの死を告げるとユウ子さんは笑わなくなってしまった。施設の職員が何をしてもユウ子さんはどうしても笑ってくれない。そんな時、テッペイ君との交流を知っていた看護師さんが提案する。「テッペイ君来てくれないかなあ。」日浦氏が連絡をするとテッペイ君は来てくれた。するとユウ子さんは笑った。職員達は心から喜んだ。テッペイ君は夢を叶えてバイク屋になっていた。テッペイ君は日浦さんに話す。「ユウ子さんのおかげで僕はぶれなかった。」テッペイ君を支えた柱であったユウ子さん。その後、ユウ子さんは43歳で亡くなった。ユウ子さんの笑顔はみんなの中に残っている。

続けて日浦氏は誰もが「Well-Being」であるための重症心身障害児者施設について以下のような役割の必要性を述べられました。

  • 専門医療の提供
  • ショートステイの機能・・特に中長期
  • 日中活動の充実(外出を含む)
  • 地域とのつながり(施設の解放)
  • HCU(準集中治療室)よりの受入
  • 終の住処として最後までその人らしく生きられる
  • 家族支援・相談・他機関とのコーディネート
  • ケアホームのバックアップ(緊急時の対応)
  • セーフティネットとしての地域生活支援(いつでも誰でも受け入れる)

さらに支援者に求められるものについて以下のように話されました。

  • 想像力(当事者の気持ちにどこまで近づけるか)
  • 創造力(ないものを創りだしていく)
  • 行動力(とにかく動く)
  • 人間への関心
  • 可能性を信じる
  • 思い・熱意
  • 自分自身の人間観の醸成
  • 一般社会の動きを知る(常識・良識を持つ)

そして日浦氏は稲森和夫氏の著書から「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という人生の方程式を紹介されました。この方程式はかけ算であるところが大切であり、だからこそ仮に能力がそれほど高くなくても熱意がしっかりあれば良い結果に繋がっていくと日浦さんは話されました。最後に、「『この子らを世の光に』は真実である。」と述べられ、「光」が見える社会、「光」に出会える社会、「光」と共に歩む社会を私たちはつくっていかなければならないと話され提言を結ばれました。

一人称「私は・・・です。」

中村氏はびわこ学園の存在意義を強調した上で、びわこ学園の社会への発信力を高めていくことの必要性について提言として述べられました。

乳幼児期に出会って小学校まで命をつなげられるかなと思っていた子ども達が、びわこ学園に入所しその後、大人になって元気に生活している。重度の障害があっても個性がある。音楽が好きな人、若い女性が好きな人。それが分かるのはひとりぼっちじゃないから。様々な課題はあるだろうが、個性豊かなひとり一人の人生を支え続けているびわこ学園の役割は大きい。
1973(昭和48)年頃、重大な職員不足が起ったびわこ学園に大津市の公立保育園の保育士さん達が応援にいくことがあった。その時のことを振り返って保育士さんたちが自分の中の偉業として誇らしげに語っている場面を見た。この人たちはびわこ学園の存在、それを支えている社会に誇りを持っている現れではないか。多くの人が同じように感じられるためにびわこ学園を知ることができるチャンスをつくってほしい。
施設側から地域の支援者に利用者さんの歴史を伝えるときに、利用者のことを一人称で伝えることが大切。支援者からの視点ではなく「私は・・・です。」という視点で地域の支援者に伝えてほしい。支援者が積み重ねてきた歴史ではなく。本人が生きてきた歴史なのだから。そしてこれから生きていくのも本人。どこまでも本人主体であり続けることが大切。
障害のある人の長い人生を支えていく時に、仕事としての関わりだけではなくて、パーソナルな形でつながれる仕組みが必要。あの人のあのときのことは、仕事は引退されたが当時担当者だったあの人が知っている。そんなつながりが持てるような仕組みづくりをしてほしい。
学びはいくつになっても大事な人間の活動の一つ。学びの機会を継続する事がその人らしさを見つけられる場所の一つになる。障害のある人だけそこから切り離されるような社会であってはいけない。

三氏が出会った様々な人を通して語られる生きることは光であったかという問いに対する報告と提言は、常にひとり一人の暮らしを考えるところから始めるということがみんなの幸せに繋がるということを教えてもらえたような気がします。「一人の人が不幸であればそれは福祉ではない」これは糸賀一雄氏の言葉ですが、まさにその通りだと私も思います。

午前でシンポジウムが終わり、午後はびわこ学園企画研究部長石井氏による事業報告と上智大学教授大塚氏による記念講演でした。

 

全体を通してとても有意義なプログラムであったと感じました。先進的な取り組みをお聴きして自分たちの支援に応用していくという講演なども大きな意味がありますが、今回のように人間として、支援者としての根幹を揺さぶられるような体験はなかなかできないなと思います。今回のようなお話を、福祉の分野に携わる人たちに限らずより多くの人に聴いてもらえると社会に与える影響は大きいのではと思いました。