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レポート・コラム
憲法学からみた糸賀一雄の現代的意義

  • 山﨑 将文西日本短期大学 教授

糸賀一雄生誕100年記念事業実行委員会では、2014(平成26)年の糸賀一雄氏生誕100年を記念し、糸賀氏の思想の今日的意味を明らかにし、これからの社会に活かしていくことを目的とした論文集を発行いたしました。この論文はその一環で募集した「公募論文」のうち、最優秀に選ばれたものになります。
その他の作品を収めた論文集は、下記リンクからダウンロードしていただくことができます。どうぞご覧ください。

糸賀一雄生誕100年記念論文集のページ

はじめに

糸賀一雄氏(以下敬称略)の名は以前から「知的障害児(者)福祉の父」として耳にしたことはあったが、私の専門外であることもあり、最近までその著書を読む機会にめぐまれなかった。そのような中で、今から数年前に、私の拙稿「生存権と『人間の尊厳』」を読んだ地方出版社の主人が、私に会いたいということで研究室に訪ねて来られた際に、参考になるのではないかと、『糸賀一雄の最後の講義―愛と共感の教育[改訂版]』(中川書店、二〇〇九年)を献本いただき、読んでみることになった。最初に読んだのが皮肉にも最後の講義であったが、人間愛に満ちた内容に深い感銘を受けることになった。そこで、糸賀をもう少し知りたいという欲求に駆られ、入手可能な本(『復刊 この子らを世の光に―近江学園二十年の願い』日本放送出版協会、二〇〇三年、『福祉の思想』日本放送出版協会、一九六八年)を購入し読み進めることになった。この後、糸賀の著書は私の憲法に関する論文に引用されることになる。

そもそも、糸賀自身が憲法そのものについて言及することはほとんど皆無であり、糸賀と憲法については何の関係もないように思われる。しかし、糸賀の「人間の尊厳」に関する深い洞察は、日本国憲法二五条の生存権のみならず、人権の根拠や憲法の人間観と無関係ではないのではないかと私は考えはじめるに至った。そこで、糸賀一雄生誕一〇〇年の記念すべき時を迎えるにあたって、無謀であるかもしれないが、糸賀一雄の現代的意義を今まで全く論じられることのなかった憲法思想の観点から探ってみようと思う。

個人と人間、尊重と尊厳

日本国憲法は、ドイツ基本法一条一項などのように、「人間の尊厳」の定めを有しない。日本国憲法にあるのは、一三条前段の「個人としての尊重」(=「個人の尊重」)と、二四条二項「個人の尊厳」だけである。ただ、「人間」と「個人」が同じものであり、「尊厳」と「尊重」が同じものであれば、日本国憲法は「人間の尊厳」を規定していることになりうる。  しかしながら、国語辞書の意味を見る限り、両者は異なる意味で使われることがある。まず、「個人」と「人間」についてであるが、『広辞苑』(第六版)を見ると、「個人」とは、「国家または社会集団に対して、それを構成する個々別々の人。単一の人。一個人。私人。」とあるのに対して、「人間」とは、「②(社会的存在として人格を中心に考えた)ひと。また、その全体。」とある。「個人」は国家や社会に対峙する孤立した存在であるのに対して、「人間」は他の人間とかかわりをもつ社会的な存在であり、両者は異なった意味で使われることがある。例えば、憲法の人権の中で、自由権は国家からの自由であり、バラバラなアトム的個人を念頭においているのに対して、社会権は国家による自由であり、社会的存在としての人間を念頭においているといえないこともない。

この「個人」と「人間」の相違を糸賀は意識していた。〈人間というのは、人と人の間柄と書くんです。人間というのは、人の間と書く。単なる個体ではありません。よく私たちは人間人間と言いますけれども、それは社会的存在であるということを意味しておる〉(『糸賀一雄の最後の講義―愛と共感の教育』41頁)。別のところでは次のようにいった。〈人は人と生まれて人間となると、私はそう思います。この場合の人というのは、個体の人です。個体の人が人と生まれて、そして人間となっていく〉(『糸賀一雄の最後の講義―愛と共感の教育』38~39頁)。ここで、個体の人とはいうまでもなく個人のことであろう。とはいえ、糸賀にとって、その〈個人は十八世紀の頃に述べられたような抽象的な孤立した個人ではなく、社会にまもられながら社会の成員としてこれに奉仕しつつ、而も社会の発達を促がす推進力であることによって自己も亦発達するような、そういう具体的な個人を指していることはいうまでもない〉(『復刊 この子らを世の光に』189頁)。ここで具体的な個人は、孤立した個人ではなく、人間を意味することになる。

次に、「尊重」と「尊厳」の相違について見てみると、『広辞苑』によれば、「尊重」とは、「①とうといものとして重んずること。②とうとく荘重であること。」とあるのに対して、「尊厳」とは、「とうとくおごそかで、おかしがたいこと。」とあり、「とうとい」ことで両者は共通するが、「とうとさ」の程度において両者に違いもみられる。というのは、「尊厳」には侵しがたい程の絶対的な「とうとさ」があるのに対して、「尊重」にはそれがないからである。かくして、「尊厳」という言葉には、他の主張や批判を受け入れず議論をストップさせてしまう効果をもたらす場合さえある。「尊重」と「尊厳」のこの意味の違いを糸賀が意識していたかどうかは定かではない。とはいえ、両者を区別して使用していたと思わせる次のような指摘がある。

〈基本的な人権の尊重ということがいわれる。しかしその根本には、ひとりひとりの個人の尊重ということがある〉(『福祉の思想』15頁、太字筆者、以下同じ)。憲法研究者の中には、憲法一三条の「個人の尊重」を何も考えず、あるいは敢えて、「個人の尊厳」と言い換える者がいるのに対して、糸賀は憲法一三条に規定されているようにそのまま「個人の尊重」といった。一方、糸賀は、人格を尊厳とみるとともに、生命を絶対的な尊厳とみている。〈今日もまた重い障害をもった子どもがうみおとされている〉。〈このひとたちが、じつは私たちと少しもかわらない存在であって、その生命の尊厳と自由な自己実現を願っており、うまれてきた生き甲斐を求めている〉(『福祉の思想』15~16頁、64頁)。別の個所で、糸賀は、〈しかし、一方では教育の本質を追究して、生命の絶対的な尊厳を守りながら、どんなわずかの天分でも生かしていこうという考え方もあった〉(『糸賀一雄著作集Ⅱ』日本放送出版協会、一九八二年、134頁)という。糸賀がなぜ生命を尊厳とするかといえば、〈かけがえのない生命を自分が生きているというよろこびが、障害者たちの身内を浸しているように思われる〉(『福祉の思想』116頁)といっていることからすれば、生命がかけがえのない、代替不可能性をもつからのようである。

以上のことからすれば、「個人の尊重」とは、孤立した個人の、他と比較しうる相対的な尊重であるのに対して、「個人の尊厳」とは、孤立した個人の侵しがたいほど絶対的な尊さであり、「人間の尊厳」とは、社会的につながりのある人間の絶対的な尊厳であり、その意味するところが異なり、三者は区別しなければならないということになる。

糸賀は、基本的人権の尊重と並んで「個人の尊重」や「個性の尊重」という言葉を使うが、「個人の尊厳」という言葉を使用していない。これは正しい言葉の使用方法といえるのではなかろうか。というのは、個人が尊厳であれば、個人の自由も侵しがたいほど尊いということになるからである。例えば、障害児(者)をいじめ、虐待する個人の自由も侵しがたいほど尊いということになりかねない。もっとも、現在では、「いじめ防止対策推進法」や「障害者虐待防止法」が施行されているので、いじめも虐待も違法性を生じ明らかに不法行為になるとはいえ、前者は平成二五年九月二八日から、後者は平成二四年一〇月一日からやっとで施行されたにすぎない。

障害児(者)をいじめ、虐待するのが許されないのは、いじめや虐待する者の個人の自由が尊厳なのではなく、それが障害児(者)の人間としての尊厳を侵すからである。「いじめ防止対策推進法」は、一条の目的で、「児童等の尊厳を保持するため」といい、「障害者虐待防止法」は、一条の目的で、「障害者に対する虐待が障害者の尊厳を害するものであり」といっているが、そこにおける児童等や障害者の尊厳は、人間としての尊厳であり、個人としての尊厳ではない。個人が尊厳なら、いじめを受け、虐待されている障害児(者)個人がそれらを容認すれば、それも尊厳ということで、いじめや虐待を認めることになってしまう。つまり、個人の自由意思は、必ずしも尊厳とはいえない。

憲法における「人間の尊厳」

日本国憲法は、一三条で「個人の尊重」を、二四条二項で「個人の尊厳」を規定しているが、「人間の尊厳」の定めを有しない。しかし、日本国憲法は、「人間の尊厳」を定めていないと言い切っていいのであろうか? 大いに疑問であるといわざるを得ない。それは、以下の理由による。

学説(通説)によれば、日本国憲法には、三つの基本原理があるといわれている。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義がそれである。この三つの基本原理は、実は相互に密接に関連している。基本的人権(人権)は人間の権利に他ならないから、「人間の尊厳」なしに認められないし、国民が国政を最終的に決定する力を有するという国民主権も、国民がすべて「尊厳な人間」として尊重されてはじめて成り立つし、戦争のない「人間の尊厳」に値する生活を営むことができてはじめて平和が実現されたといえる。このように、基本的人権も国民主権も平和主義も共に「人間の尊厳」を基礎におくといえる。

これと関連して、人権の根拠に何があるのかという問に対して、通説は「人間の尊厳」を答えとして提示していた。例えば、〈今日ひろく人権または基本的人権というとき、われわれは多かれ少なかれ「人間性」からいわば論理必然的に生ずる権利というようなものを頭にうかべている。(略)人権の概念がかように「人間性」とか、「人間の尊厳」とかによって根拠づけられるとすれば、それはいわば「人間」の存在ということから論理必然的にうまれるものだと考えられる〉(1)。

それに、憲法一八条の奴隷的拘束や苦役の禁止などの人身の自由の根拠としても「人間の尊厳」が挙げられるのが通例である。例えば、〈憲法一八条は、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定め、人間の尊厳に反する非人道的な自由の拘束の廃絶をうたっている〉(2)といわれるように、一八条の根拠に「人間の尊厳」があることも明白であろう。その上、憲法三六条の公務員による拷問と残虐な刑罰の禁止も、「人間の尊厳」から帰結されるものの一つである。なぜなら、拷問も残虐な刑罰も明らかに「人間の尊厳」に反するものであるからである。

さらに、憲法二五条一項の生存権の根拠としても「人間の尊厳」が以前から挙げられていた。二五条一項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めるが、この生存権の保障は、国民が誰でも、人間に値する生活を営むことができることを権利として宣言したものである。人間に値する生活とは、「人間の尊厳」にふさわしい生活のことであり、生存権の根拠を追及するものは、その根拠として当然のように「人間の尊厳」を挙げることになる。

糸賀も、生存権の根拠として、「人間の尊厳」を考えていたようである。憲法二五条一項の生存権を受けて、二五条二項において、「国は、……社会福祉……の向上及び増進に努めなければならない」と国の社会福祉的義務を規定するが、この社会福祉について、糸賀は、次のように述べていた。〈社会福祉とは、単に人間の外的な生活の可能性の保障を意味するものに留まらず、それは個々の人間の生活が、人間の尊厳にふさわしく生の価値をもったものとして、形成されうることを含めたものの謂でなければならない〉(『糸賀一雄著作集Ⅱ』267頁)。  以上のことからすれば、日本国憲法は「人間の尊厳」を明文化してはいないが、憲法の基本原理の根拠や、人権の根拠、とりわけ奴隷的拘束・苦役からの自由や生存権などの根拠として、「人間の尊厳」の存在を背後に認めざるを得ず、いわば不文憲法として「人間の尊厳」が定められているということになろう。

日本国憲法は、欧州連合基本権憲章(二〇〇〇年)の一条のように、「人間の尊厳」を規定するのではなく、一三条で「個人の尊重」を、二四条二項で「個人の尊厳」を規定しているにすぎない。しかし、日本国憲法が不文憲法として「人間の尊厳」をその根底においているとすれば、一三条と二四条二項は、「人間の尊厳」の意味において解釈されるべきということになる。つまり、一三条前段は、「すべて国民は、尊厳な人間であるが故に、個人として尊重される」や、二四条二項は、「家族生活における個人の人間としての尊厳と両性の本質的平等」と解されるべきではなかろうか(太字は、いわゆる補充解釈である)(3)。

糸賀は、「人間の尊厳」そのものについて論じたことはないし、まして「人間の尊厳」という言葉さえ先に引用した箇所などを除きほとんど使用していない。しかし、「人間の尊厳」を踏まえた知的障害児(者)福祉に関する立論は随所でみられる。特に、糸賀は、なぜ人間は尊厳な存在であるのかについて深い考察を行っていた。以下、これに関してみていきたい。

人間の社会性・関係性

 「人間の尊厳」を根拠づけるのは、〈人間には他のものには見られない、そして他のものに勝る固有の価値があるということである〉(4)といわれる。とはいえ、「人間の尊厳」を根拠づける、他のものには見られない、他のものに勝る人間に固有の価値とは一体何なのか?

まず、人間に固有な価値として考えられるものの一つに人間が神から造られた被造物であるという説明がある。この意味での「人間の尊厳」の理解は、ユダヤ=キリスト教から生まれた。旧約聖書の創世記、特に〈神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を創ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。神は御自分にかたどって人を創造された〉(一章二六~二七節)という箇所に人間が神の似姿であることが如実に表現されている。ここから、人間は絶対的な価値を有する唯一の「神の似像」(imago Dei)として創造されたものであり、それ故、多種生物に対する優越性や支配権が認められ、人間は絶対的な価値を有するものとして尊厳に値することになる。

糸賀は、中学時代からの友人の影響もあってキリスト教徒となり、しかも京都帝国大学では宗教哲学を専攻したこともあり、この「神の似像」に人間の尊厳の根拠をみた可能性もある。現に〈「今茲に私が生きている」ということは、時間空間の交錯点として存在することであるが、それが実は神の姿であるということなのである〉(『糸賀一雄著作集Ⅰ』日本放送出版協会、一九八二年、262頁)との表現もある。しかし、「神の似像」に人間の尊厳の根拠をみたことを証明する直接的な記述は見当たらない。しかも、この説明はキリスト教を信じないものにとっては何ら説得力をもつものではない。例えば、生きとし生けるものすべてに仏性が宿ると説く仏教では、あらゆる生命に平等な価値が認められ、人間の優越性は説かれてはいない。このこともあってか、糸賀自身も以下のように人間の尊厳の根拠を神の似像以外のものに求めていた。

ある介護福祉の教科書によれば、〈人間の尊厳は、すべての人が社会の人びとから敬愛され、一人ひとりの個性が尊重されることを意味している。すなわち尊厳とは、社会から離れて存在するものではない〉(5)。確かに、人間の尊厳は、社会から離れて存在するものではなかろう。というのは、人間とは、社会的存在であるからである。糸賀は、人が個体の人=個人として生まれて、社会的存在としての人間となっていく、この道行きを教育とみたうえで、次のようにいった。〈人と生まれて人間となる。その人間というのは、人と人の間と書くんです。単なる人、個体ではありません。それは社会的存在であるということを意味している。関係的存在であるということを意味している。人間関係こそが人間の存在の根拠なんだということ、間柄を持っているということに人間の存在の理由があるんだということ、こういうことなんです」(『愛と共感の教育[増補版]』伯樹社、一九七二年、32頁)。こうして、糸賀は人間が尊厳である理由を社会性や関係性のなかにみた。反面、〈自分だけのエゴイズム、自分さえ存在すればいいという考え方ではないはずですね〉(『愛と共感の教育』33頁)といい、個人の利己主義を否定した。

古くは、アリストテレス(Aristoteles)が「人間は社会的動物である」といったように、人間は社会の中でのみより善く生きることができる。こうして、人間の尊厳性の根拠を社会性・関係性に求めることもできようが、社会的動物であるのは、必ずしも人間に限らないという社会生物学からの指摘がある。野生生物にあって、ライオンの接近を鳴き声などで群れに知らせる見張り役のシマウマのように、利他的行動をとる動物は確かに社会的動物といえなくもない。とすれば、人間が尊厳な存在である根拠の一つとして社会性・関係性を挙げることができたとしても、これだけでは十分とはいえないだろう。そこで、人間の尊厳の根拠として考えられるのが理性や人格、それに自律である。

理性・人格

人間が尊厳をもつ理由として、人間は動物と違って理性をもっているということが挙げられる。キケロ(Cicero)は、自然の欲求のままに生きる動物と、自然の欲求を理性によって制御し、節度をもって生きることのできる人間とを対比し、理性的コントロールの能力こそが他の動物にはみられない、人間固有の気高さ、つまりは人間の尊厳だと考えた。〈動物はただ本能的欲求のままに行動するものだが、人間はそのようであってはならない、人間には理性があるのだから、理性の力によって欲求をコントロールし、自制的な生活を送らなければならない、そして、このようなことができるのは人間だけだということである〉(6)。キケロは、理性的コントロールの能力にこそ人間の尊厳をみた。

これに対して、人格に人間の尊厳を見出したのは、カント(I.Kant)である。カントは義務に基づいて行為のできる存在、無条件な命法(定言命法=「そうすべきだから、そうする」というその行為それ自体が目的となっている命法)に基づく行為のできる存在を人格(Person)と呼んだが、自由意思を持たないモノや動物などはそもそも人格であることができないので、人格は当然に人間だけにともなった。カントのいう人格は、自由意思をもつ自律した道徳的主体のことであり、人格をもった存在であることこそが人間の尊厳にほかならなかった(7)。ただここに人格とともに自由意思をもつ自律も登場してくる。

しかしながら、人間が尊厳なる存在であるのは、人間が理性や人格・自律を有するからであるという説明に対しては、重大な欠点が存することを指摘しないわけにはいかない。というのは、理性や人格・自律を十分に有しないかもしれない重症心身障害児(者)などは、尊厳の対象とならないのではないかという疑問が生じるからである。しかし、これに対しては、重症心身障害児(者)などの発達可能性から彼らの尊厳性を導き出すことが可能であると考えられる。人間を普遍的かつ無限の発達可能性ある存在として捉え、そのこと自体に人間の価値を見出せばよいわけである。人間が尊厳な存在であるのは、発達可能性があるからである。しかも、発達を縦の発達というより横の発達として捉える。これは誰でも生き続ける限りどこまでも伸ばしていくことができる。糸賀は、この発達可能性を次のように論じていた。

〈人間の精神発達というものは、年月とともにしだいに上へ伸びていくばかりでなく、あらゆる発達段階で豊かな内容をもつようにひろがっていくものだということも証明された。縦軸の発達に対して横軸の発達とでもいえるような内容的な展開があるといことである〉。〈縦軸の発達でほとんど絶望であっても、横軸の発達は無限といってもよい。この横軸の充実が上への発達をうながすのである。どんなにひまがかかっても、この道行きそのものは、万人に共通のものである。無限な横軸の充実、そこにその子どもの充実が期待される。心身の障害がどんなに重くても、その障害を克服する努力とともに、いまの生活を豊かにするという方向で、無限の発達の可能性に挑戦するというのがこの子の人生の意義であるとすれば、それは施設においてばかりでなく、すべての人びとにあてはまる原理ではあるまいか〉(糸賀一雄・積惟勝・浦辺史編著『施設養護論』ミネルヴァ書房、一九七二年、266~267頁)。

自律・自己決定

人間が尊厳である根拠として、人格との関係において自律も出てくることになるが、それでは、そもそも自律とは何か。また、自律の国語辞典の意味から見ていこう。  自律=「自分の気ままを押さえ、または自分で立てた規範に従って、自分の事は自分でやって行くこと。」(『岩波国語辞典 第三版』)、「自分で決めた規則に従う(従い、わがままを押える)こと。」(『新明解国語辞典 第三版』)とある。二つに共通するのは、自分の立てた(決めた)規範に従って行動することである。自分で決めたということに着目すれば、自己決定の意味にも近づく。ただ注目すべきは、このなかに自分の気まま、わがままを押さえることが含まれていることである。カントは、「自分でそうすべきだと思うからそうする」という主体的で、しかも理性的な判断能力を自律性(Autonomy)と呼んだが、自分で決定していれば何でもいいということではなく、理性によって制御された、一貫性のある決定でなければならなかった。その意味では、自律と単なる自己決定は必ずしも同義ではないといえる。ところが、最近、社会福祉の領域においては、自律は自己決定と同じ意味で使われることがほとんどである。例えば、〈「自律(Autonomy)」は「自己決定ができる」「自分のことを自分で決めることができる」ということである〉(8)といわれたりする。

この見解からすれば、糸賀の主張に自立はあっても、自律=自己決定が見られないことに対して不十分さを感じる人がいるかもしれない。とはいえ、糸賀は、自律や自己決定に全く触れていなかったわけではない。自己決定と保護=他律の関係について次のように述べている。〈精神薄弱児の場合は、そこに現実のかなしさがある。結局本人の自意識とか自覚とかを充分には持たないで、おぼろげではあっても、他律的に方向決定をしてやり、その方向に向かって許される範囲での現場指揮をする外はない。適性の幅に期待するのである。他律的といっても、本人の好みや能力を全く無視して決定するのではないが、好みを誘導し、時としては暗示し、潜在しているかも知れない能力を引き出すための工夫が職業教育における「特殊教育」ということになるかも知れない〉(『糸賀一雄著作集Ⅰ』350頁)。しかも、以下のように自己決定のみを強調しすぎる最近の傾向に違和感を覚える私のようなものにとっては、逆に自己決定に触れることのない糸賀に物足りなさを感じることはない。

〈人生ときには人の支援を受けることもある。しかし、本人の意思(責任)において支援を受けることを選択するのであれば、それは人間の尊厳のもとにおける自立なのである〉(9)といわれたりする。そこでは、自己決定が重視され、自己決定ができさえすれば自立できるかのような印象を与える。自己決定することが自立生活だという見方がそこにはあるようである。いわば、自己決定至上主義といえそうなものがそこに垣間見える。

ミル(J.S.Mill)は、ある一つの自由が制限されるのは、その一つの自由が他者に危害を及ぼすときだけである、という危害原理(Harm Principle)を提起した。これに関連して、ミルが自分自身にかかわる部分については自己が主権者であると述べたこともあって、この原理は自己決定を重視するという考え方の出発点をなすものとされている。

しかし、複雑化する現代社会にあっては、他者との一切のかかわりなしになされるような純粋無垢な自己決定はありえない。その理由は、次の通りである。

①自己決定とは自分のことを自分で決定することであるが、まず、複雑な社会で生活していると、他者がいかなる意味でもかかわらない自分のことはないのではないかという疑問が生じる。

②人は他者との影響関係の中で生きているのであり、他を切り離したところにおいて自己だけで決定できるのかという問題もある。全身性障害のある人の自己決定には、介助というかたちで否応なしに他者との関わりが発生している。

③自分で決定するといっても、この世では自分で決定していない、もしくは決定できないものもあるのではないか。私たちの営む人間関係は選べないものが多い。自分がどんな家庭に生まれるか、障害をもたずに生まれるかどうかも自分では選べない。

それに憲法の観点から見れば、わが国では憲法上の権利として自己決定権を真正面から認めた判例は存在しないといえる(10)。学説においても自己決定が憲法上の保護に値する場合があることでは共通理解があるとしても、自己決定権の射程範囲がなお確定していない。こうして、自己決定権が憲法上の人権であると断定できるかどうか疑わしい側面があるし、自己決定権が憲法上の人権であるとしてもその保障範囲は定まっていないのである。

以上のことから、いわゆる自己決定至上主義には大いなる疑問を感じざるを得ない。しかも、〈自己決定を普遍的なものとして「何よりも価値がある」と考えることには、それは「自己決定できない人間」を「生きる価値がない人間」とみなす人間観につながらないか、という批判〉(11)さえ生じさせる。

自立

自律と同音語であり、自律と同義とされることもある自立とは何なのか。国語辞典の意味から見ていこう。

自立=「自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやってゆくこと。独立。ひとりだち。」(『岩波国語辞典』)、「他の経済的・精神的支配を受けず、自分の力で物事をやってゆくこと。独立。」(『新明解国語辞典』)とある。二つの辞典に共通するのは、他の支配を受けないことと、自分の力でやってゆくことあるいは独立することである。

つまり、自立(independence, self-help)とは、自分のことを自分でできる、あるいは自分でできることは自分でする、ということであるが、その自立について、社会福祉の領域では、①自助的自立、②自律的自立、③依存的自立という三つの類型に区別されることがある。①自助的自立とは、生活者の自己責任に基づいて確保される生活手段のみによって、その生命ならびに活力が維持・再生産されている状態をいう。〈社会福祉、なかでも生活保護において自立自助、自立助長という概念がもちいられるとき、そこに込められている意味内容はここでいう自助的自立であることが多い〉(12)。②自律的自立というのは、自分で選び、自分で決め、その結果に責任をもつ状態をいう。③〈依存的自立とは、たとえ生活の一部を社会福祉による援助に依存していたとしても、生活の目標や思想信条、生活の場、生活様式、行動などについては可能な限り生活者自身による自己選択権や自己決定権が確保されている状態のこと〉(13)をいう。

最近、社会福祉の領域において、自助的自立=経済的自立(保護からの脱却)がもはや「古い自立概念」であり、これに対して、依存的自立が「新しい自立概念」であると捉える者がいる(14)。介護福祉の領域においてもこの依存的自立は肯定的に評価されている。例えば、〈介護の領域においては、本人の「自己決定」が尊重された生活、主体的な生命の躍動、主体的な生活の実現がされていれば、他者からどのような援助を受けていようと「自立」しているとみなします〉(15)。だから、〈「衣服の着脱の困難な人は、従来三〇分や一時間かけてボタンがかけられるように《自立のための訓練》を受けたが、その人の選択・決定によって、ボタンは一分間も要することなく自分が選んだ介助者にかけてもらい、後の時間は自分の生活の質を高めるべく活用する」という論理が語られるようになり、「自立とは依存をなくしていくことである」という経済的自立や身辺的自立を評価基準とする考え方から、依存を肯定的にとらえ、相互依存のあり方によって、よく生きていくことができるという論理への転換が主張される〉(16)。

しかしながら、自分ができることを考えず、すぐ人に頼って、サービスを活用するだけでは、自立とはいえないのではないだろうか。右の例でいうと、ボタンかけに一時間かかっていたが、自立のための訓練により一〇分でできるようになった場合、確かに訓練のため自分の自由に過ごせる時間を多く費やしたかもしれないが、自分の好きな時に人の手を借りず衣服を着ることができるようになる。できないとすぐに諦めず、努力することも自立にとって大切なのではないか。糸賀はいう。〈心身に障害をもっているひとたちが、このようなリハビリテーションの各分野の活動に支えられ、社会のあたたかい受け入れの好意に包まれるとしても、なお、絶対的に必要なのは、障害者自身の自立への意欲である。残存能力や補完的な器具を使って獲得された能力を、最高度に発揮しようとする真剣な努力が求められる〉(『福祉の思想』115頁)。

また、その懸命な努力する訓練の姿は周りの者に共感を与えたりする。だからこそ、〈人は受けることによってではなく、与えることによってこそ多くの喜びを得ることができる〉(17)。「受けるより与えることに幸いがある」(『使徒言行録』二〇章三五節)ということを思い返さなければならない。〈人間が人間としての尊厳を保って暮らして行くための要素は幾つもあるが、その一つに「与える」という行為がある〉(18)。糸賀は、次のようにいった。〈精神薄弱者の教育の中心課題は「生活による生活のための教育」であることは明らかである。その生活は、どのような社会環境のなかにどのように主体的に適応することができるかを問題とする。単に与えられるだけでなく、自分からなにかを与えることのできる生活を尊重する〉(『糸賀一雄著作集Ⅱ』133頁)。

与えるのは何も大げさなことではなくて、自分のできる範囲のささやかなものでもよい。糸賀は、次の例を幾度となく繰り返した。〈びわこ学園に運びこまれた一人の青年は、ひどい脳性麻痺で、足も動かず、ベッドに寝たきりで、知能は白痴程度であった。しかも栄養失調で骨と皮になり、死相があらわれているのではないかと思わせるほどであった。半年あまりしたある日のこと、いつものように保母がおむつをかえようとすると、彼は、息づかいをあらくしてねたまま腰を心もちあげているのであった。保母は手につたわってくる青年の必死の努力を感じて、ハッとした。これは単なる本能であろうか。人間が生きていく上になくてはならない共感の世界がここに形成されているのであった〉(『復刊 この子らを世の光に』303頁)。

なお、「糸賀は経済的自立を意味する古い自立概念(いわば自助)に少なからずとらわれていたのではなかろうか」(19)との指摘がある。確かに時代の制約もあり、経済的自立や身体的自立などに力点をおいたことは否定できない。しかし、糸賀はなにも経済的自立のみを説いていたわけではない。例えば、次のように社会的自立の必要性も説いていた。〈障害者は、障害をもっていても、すべての面で独立した人間として、積極的に社会生活に参加しなければならないという信条が、障害者を勇気づける。障害を克服させる〉(『福祉の思想』115頁)。さらに、糸賀が〈どんな保護の中でも、重症のほんとうに医学的な看護を必要とする人たちの中にも、私は「人間としての自立性」が養われていかなければならないということを学んだのです〉(『愛と共感の教育』86頁)というとき、そこに経済的自立では捉えきれない自立を含んでいたと考える。

憲法と障害児(者)の発達権

日本国憲法は、二六条一項において、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定し、これを受けて、教育基本法は、四条一項で、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」、同条二項で、「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない」と定める。四条二項は、昭和二二年教育基本法制定当時にはなかったもので、平成一八年一二月一二日に教育基本法が改正されたのにともない新設された。これは、糸賀の望んだ条文がようやくある程度実現したものといえよう。

従来から、憲法や教育基本法における「すべて国民」には、障害をもつ者も当然に含まれ、教育を受ける権利の主体としての国民には、子どもも含まれる、と解されてきた。ただ、「その能力に応じて、ひとしく」とは、各人の適性と教育を受けるに必要な能力のみが考慮されるべきであり、教育を受ける(学習する)能力とは無関係な家庭的・経済的事情などを理由とする差別は禁じられる、と解されてきた。しかし、糸賀が「能力によってではない」(『愛と共感の教育』165頁)と強調したように、「能力に応じて」の意味を能力の程度によってと解すると、すべての子どもの能力の十分な発達を保障することができなくなる。そこで、今日では、すべての子どもが能力発達の仕方に応じてなるべく能力発達ができるような(能力発達上の必要に応じた)教育が保障されるとする見解が有力となっている。障害ゆえに「能力」において低い評価がされることにより、障害児には低いレベルの教育しか用意されないという事態は許されない。糸賀は、障害をもった子どもたちの能力発達の権利を保障する必要性を次のように説いた。

〈この子らはどんなに重い障害をもっていても、かけがえのない生命をもっていて、かけがえのない個性的な自己実現をしているものです。人間と生まれて人間となっていくのです。その自己実現こそが創造であり、生産であるのです。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを認めあえる社会をつくろうということです。「この子らに世の光を」あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝やかそうというのです。「この子らを世の光に」です。この子らが生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのです〉(『糸賀一雄著作集Ⅲ』日本放送出版協会、一九八三年、274頁)。

糸賀の説く人格発達の権利は、一九八六年の国連総会で採択された「発達(発展)の権利に関する宣言」の発達権(the rights to development)の先駆けであり、「発達する権利は奪うことのできない権利である」と同趣旨である。さらに、一九八九年に採択された「児童の権利に関する条約」で、「締約国は、児童の生存及び発達を可能な最大限の範囲において確保する」(六条二項)と同義であろう(20)。

おわりに

知的障害児を「世の光」とする糸賀一雄の思想は、二〇世紀日本の代表的福祉思想の一つであり、福祉上の人類的な遺産であろう。しかし、それにとどまらず、糸賀の「人間の尊厳」についての考察は、憲法学の観点からも学ぶべきものが多くあった。本論で論じてきたように、例えば、個人と人間の区別、尊重と尊厳の違い、なぜ人間は尊厳な存在であるのかを考えた場合における人間の社会性や関係性、理性や人格・自律が十分ではない重症心身障害児の発達可能性、障害児(者)の発達権の保障などである。

また、自己決定が重要であることに疑いはなく、それが人権として保障されることがあるとしても、自己決定さえしていれば自立であるとする者や、依存的自立(例えば、生活保護をうけながらの自立)を「新しい自立」の観念と捉え、経済的自立を「古い自立」の観念ということで軽視する者に対して、糸賀の自立観は、自立の原点に立ち返る意味合いにおいてもなお意義があるように思われる。こうしてみれば、知的障害児を「世の光」にしようとした糸賀自身が、没後四五年経過した現在でもなお光を放ち、その輝きを失ってはいない。

参考文献
  • 宮沢俊義『憲法Ⅱ〔新版〕』(有斐閣、一九七四年、77~78頁)。
  • 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法〔第四版〕』(岩波書店、二〇〇七年、228頁)。
  • ホセ・ヨンパルト『日本国憲法哲学』(成文堂、一九九五年、126~128頁)を参照。
  • ホセ・ヨンパルト『法の世界と人間』(成文堂、二〇〇〇年、137頁)。
  • 黒澤貞夫『人間の尊厳と自立』(建帛社、二〇〇九年、10頁)。
  • 葛生栄二郎『ケアと尊厳の倫理』(法律文化社、二〇一一年、15頁)。
  • 前掲6(21頁)。
  • 白澤政和編『人間の尊厳と自立』(ミネルヴァ書房、二〇一〇年、33頁)。
  • 前掲5(51頁)。
  • 前掲2(122頁)。
  • 小柳正弘『自己決定の倫理と「私―たち」の自由』(ナカニシヤ出版、二〇〇九年、48頁)。
  • 古川孝順『福祉ってなんだ』(岩波ジュニア新書、二〇一〇年、177頁)。
  • 前掲12(179頁)。
  • 笹沼弘志『ホームレスと自立/排除』(大月書店、二〇〇八年、57頁)。
  • 前田崇博監修『やさしく学ぶ介護の知識①人間と社会』(久美株式会社、二〇〇九年、6~7頁)。
  • 前掲8(89頁)。
  • 葛生栄二郎編著『新・人間福祉学への招待』(法律文化社、二〇一〇年、5頁)。
  • 曽野綾子『辛うじて「私」である日々』(集英社文庫、一九八七年、19頁)。
  • 京極髙宣『この子らを世の光に―糸賀一雄の思想と生涯』(日本放送出版協会、二〇〇一年、182頁)。
  • 前掲19(162~163頁)。
山﨑 将文西日本短期大学 教授

福岡大学大学院法学研究科博士課程後期公法学専攻を経た後、平成二四年より西日本短期大学教授。

山﨑 将文