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レポート・コラム
「横(横軸)の発達」に込められた願いを未来へ読み解く

  • 垂髪 あかり大阪市立西淀川特別支援学校 教諭

糸賀一雄生誕100年記念事業実行委員会では、2014(平成26)年の糸賀一雄氏生誕100年を記念し、糸賀氏の思想の今日的意味を明らかにし、これからの社会に活かしていくことを目的とした論文集を発行いたしました。この論文はその一環で募集した「公募論文」のうち、佳作に選ばれたものになります。
その他の作品を収めた論文集は、下記リンクからダウンロードしていただくことができます。どうぞご覧ください。

糸賀一雄生誕100年記念論文集のページ

糸賀の肉声〜「横(横軸)の発達」

「ただ発達というのは/はえば立て 立てば歩めという/『縦軸』の発達だけじゃなくて/横に豊かなものがいくらでも/発達していくんだということ/それは何かというと 感情の世界をね/豊かに持っているということ/縦の発達だけじゃなくて/横の発達があるということに/私たちは希望を持つんですよ/私たちは 重症の子供との/共同の生き方 共感する世界ね/そういうものを/大切にしたいと思います」(糸賀一雄、ラジオ出演より。なお、「/」は番組での字幕の改行を示す)。

これは、二〇〇七年三月二〇日に放映されたNHKスペシャル「ラストメッセージ 第六集 この子らを世の光に」において糸賀一雄が実際に語った生の声である。番組では、重症心身障害児施設びわこ学園について、一園児(戸次公明さん)の14歳当時の抑制の効かない動き回る姿(療育記録映画「夜明け前の子どもたち」一九六八年)(1)を映した後に、彼が粘土を使った療育がきっかけで変わっていったエピソードと、54歳になった今も粘土に打ち込む姿の映像に重ねて流された。そして、「重症心身障害児、一人ひとりの可能性に目を向け、共に生きて行こうとした糸賀一雄……」というナレーションで、次の場面に転換する。

「この子らを世の光に」に代表される糸賀思想にあって、「横(横軸)の発達」が障害児福祉・教育関係者以外の人びとの間で語られることは稀である。しかし、糸賀が語ったこの「横(横軸)の発達」にこそ、彼の思考・思想におけるさまざまな格闘が凝縮されており、今日および未来社会への示唆も大きいと思われる。

糸賀は「横(横軸)の発達」をいつ使い始めたのか

【ラジオ出演はいつ】

「横(横軸)の発達」という四(ないし五)文字を、糸賀はいつ使い始めたのであろうか。

これについて明らかにするために、筆者はまず、NHKスペシャル「ラストメッセージ」の製作ディレクター(当時)であった牧野望氏に協力を依頼した。その結果、冒頭の肉声は、NHKラジオ「婦人学級」(一九六八年)で放送された「人間の心」におけるものであることが判明した(2)。  

【先行研究では】

それでは、文献資料ではどうであろうか。糸賀に関しては、幾つかの先行研究(3)があるが、「横(横軸)の発達」について取り上げたものは、さほど多くはない。

そのなかにあって、石野(一九九六年)は、糸賀が重症児の価値を「発達」によって証明しようとした際に、「横軸の発達」に「着目」したと指摘し(4)、池田(一九九九年)は、「発達保障の根拠」として糸賀が「横軸の発達」観を「提起」することによって、重症児の「発達観に大きな転換をもたらし」たと指摘している(5)。また、京極(二〇〇一年)は、「発達保障の考えに関するもの」として、糸賀は「横軸の発達がある」ということを「発見」したと指摘している(6)。

さらに最近のものでは、丸山ほか(二〇一二年)が、〈学園では、新たな能力を獲得していく「タテへの発達」だけではなく、今持てる力を豊かに発揮することで生活に幅がでてくる、人とのかかわりが広がるなど、子ども自身が人格や生活、人間関係をふくらませていく様子を「ヨコへの発達」ととらえる視点が提起され〉たと、より平易に解説し、糸賀はそこで、〈障害の重い子どもたちの人間的な「値打ち」を徹底的に尊重しよう〉と訴えた、と指摘している(7)。

しかし、「横(横軸)の発達」の使用がいつからであるかについては、特定されていない。

【『糸賀一雄著作集』等では】

そこで、筆者は糸賀の著作物の中に、「横(横軸)の発達」という記述がないかを調べることにし、『糸賀一雄著作集Ⅰ〜Ⅲ』および、著作集に収録されていない文献(未刊行資料を含む)を、可能な限り検索した。

その結果、公刊および発表年において、糸賀が亡くなった一九六八年に三点(8)、一九六七年に三点(9)、一九六六年に一点(10)、それに執筆年が特定できないもの一点(11)が見つかった。しかし、一九六五年以前には、「横(横軸)の発達」の内容を指し示す記述はあるものの、用語として使われたものは確認できなかった。現時点では糸賀は、一九六六年の論稿「この子らを世の光に(二)―重症児の生産性について―」で初めて「横(横軸)の発達」という用語を使用していたとみなし得る。

【「一九六六年」という謎】

「一九六六年」という検索結果を、筆者は意外に思う。なぜなら、近江学園が「発達保障」の考え方を公式に『近江学園年報』第九号において打ち出したのは一九六一年であった。「発達保障の根拠」として「横(横軸)の発達」観が提起されたのであるとすれば、すでに「横(横軸)の発達」という用語が使用されていてもおかしくないはずである。

さらに、糸賀による重症心身障害児施設びわこ学園の創設は一九六三年であり、糸賀が初めて「発達保障」をテーマにした論考を発表した年でもある(12)。「発達保障」がびわこ学園の創設理念となる中で、「横(横軸)の発達」は、なぜこの時にもまだ使用されていなかったのであろうか。そして、なぜ初めて活字となって表現されるのが一九六六年からだったのか。

この時間のズレ=タイムラグには、糸賀の思考における格闘が秘められていたのではないだろうか。この点を解き明かすために、一九四六年の近江学園創設から、一九六六年までにおける糸賀の「重症児」観の変遷を辿り直してみたい。

価値の転換としての「横(横軸)の発達」

【「永遠の幼児」という見方】近江学園創設時、糸賀は重症児について〈同じ精神薄弱児といつてもその程度はさまざまで、人間的であるよりもむしろ動物に近いようなものもあれば、ある種の白痴の如きは植物的でさえある〉。また〈生涯精神年齢が五、六歳程度以下〉の者に対して〈永遠の幼児〉(13)と呼び、彼らに対する限定的な見方をはっきりと示していた。

これについて森(一九七九年)、河合(二〇〇七年)はいずれも、近江学園は創設の精神に貫かれた職業教育を重視する実践と、その例外的存在としての障害の重い子どもの実践という、二重構造をもって出発したことが背景にあると指摘している(14・15)。 

また、清水(一九七六年)は、この時期、重症児は、「近江学園の基本理念からは、糸賀をふくめ学園全体において、いわば例外として位置づけられていた」とし、こうした捉え方に陥った原因として、初期の学園の焦眉の課題が「教育的であってしかも営利的であるような各種の生産現場を用意して学園の自立自営をはかる」ことにあったからだと指摘している(16)。

【実践をくぐっての驚き】

初期の糸賀の「重症児」観が変容していく契機として、これらの先行研究はいずれも「重症痴愚・白痴」のクラス「さくら組」や「落穂寮」、「杉の子組」における実践を挙げている。

実際、糸賀は一九五二年より開始された「さくら組」での実践について、〈目に見えないようではあるが、この子どもたちにも、肉体と精神の進歩はあった。絵をかかせれば、徐々にではあるが、形や色彩に進歩がみとめられる。ほんのちょっとした変化やうごきも、われわれにはおどろきであり、よろこびであった〉(17)と記述している。

また、「杉の子組」(一九五四年〜)の実践については、〈長い年月にわたって、名伏し難い困難ととり組んだ関係者の苦闘の記録である(中略)その背後に、大げさにいえば血みどろの生活があったことを、私は敢ていいたいのである〉(18)としながらも、〈彼らは彼らなりにお互いにもみ合って、一定の時期をすぎると驚くほどの伸びを示し、こちらは喜ぶやら、安心するやらということのくりかえしであった〉と記された記録(19)に驚きと敬意を示している(18)。

【発達―発酵・自覚・確信】

こうした実践を経て糸賀は、重症児への教育の目的を、社会の役に立つことに置くのではなく、〈もつと本質的に、この子どもたち自身の生きるよろこびを高める〉(20)ことに見いだすようになっていく。そして、〈白痴が白痴として絶対肯定されながら、同時に無限の向上をめざして、社会的ないとなみがつみ上げられる姿が、この教育の特質である〉(20)と言いきっている。そして、一九五八年に出された『近江学園年報』第八号において初めて、障害の重い子どもに対して、「発達」という言葉を使用するのであった(21)。

このように、糸賀の新しい「重症児」観は、「さくら組」等での「白痴、重症痴愚児」への取り組みのなかで発酵し、「杉の子組」の療護児への「医療と教育」保障の実践のなかで自覚、確信され始めること(22)が明らかである。

この段階では、未だ「横(横軸)の発達」の用語は使用されていない。しかし、近江学園によって「発達保障」の理念が公にされる前年の一九六〇年には、既に「横(横軸)の発達」の内容を指す記述が見られるようになる。子どもの絵が、生活経験の広がりによってより豊かになっていくことを、「『心の広がり』を象徴している」と捉えたものや、就労現場で初めてもらった千円の給料に目を輝かせた者の、値段の如何ではなく「心の輝き」を捉えたものである(23)。

【「発達保障」の表明】

同じく一九六〇年からは「土曜会」と称して、近江学園の有志職員が集まって指導体制についての検討が行われた。

この時期、ヨーロッパ視察中であった糸賀は、そこで様々な刺激や感銘を受ける一方で、欧州で見た施設が障害児(者)自身の内面性を深めるアプローチをしているというより、表面的で、社会復帰重視の障害者処遇をしていることに違和感を覚えた。そして、それを反面教師とし、改めて「人格形成」、すなわち、「内面性への深まり」を追求したいという思いを強めたのであった(24・25)。ここで、糸賀は、内面性の形成について、〈精薄者個々人の生甲斐というものはどういうのであろうかということであります〉(25)と述べている。

こうして、「土曜会」での討議と、糸賀が外遊先で思索していたことが一致し、一九六二年に「発達保障」という言葉を糸賀は初めて公に使用した。全国社会福祉協議会主催の重症心身障害児対策促進協議会の席上のことであった(26)。

【「生命」そのものの尊さ―もがき・悩み・闘い】

前述したように一九六三年、重症心身障害児施設びわこ学園が創設される。世間では悲しいことに、親の手によって重症児の命が絶たれる事件が相次ぐなか、糸賀は施設の運営に苦心しながらも、重症児たちが生命を燃やしながら懸命に生きる姿に出会い、一人ひとりの生命と真正面から取り組んでいく。その過程で、複数の重症児たちの死にも直面し、気持ちを奮い立たせてそれらを乗り越えていく。こうして、どんな重症児であっても、〈その生命はかけがえのないものであって、全世界の富をもってしても買うことができないものなのだ〉(27)と、糸賀は改めて「生命」そのものの尊さを痛感するようになる。

近江学園創設から、障害のある子どもたちとの生活、数々の療育実践を経て、自身の「重症児」観を転換していった糸賀であるが、びわこ学園において生と死そのものに対峙することで、改めて重症児の価値を「生命」においたのであった。

しかし、それだけでよいものか。実践によって重症児が変化する様子を前にして、重症児の価値は「生きていることそのもの」だけであろうか。糸賀は、彼らの目線に降り立って世界を覗き、声なき声に耳を傾け、彼らに心を添わせて自問自答することを諦めなかった。もがき、悩み、闘い続けた糸賀は、やがて〈白痴の人たちのどんな生き方が本当のしあわせであろうか〉(28)という命題を持つようになる。

【どんな子どもも発達する】

びわこ学園での二年間の実践を経た一九六五年、糸賀は、〈どんな子どもも発達する。たとえ重症な心身障害のために寝たっきりの子どもであっても発達する〉(29)ことを提起する。そして、〈発達するというのは、ひとつの段階がつぎの段階の準備だというだけでなく、どの段階もそれなりに力いっぱいに充実して、はちきれるばかりにゆたかになり、そしてちょうど木の実が熟してはじけるように、次の段階にはいっていくことをいうのである〉(29)と述べて、「横(横軸)の発達」を示唆している。「横(横軸)の発達」という概念は、命名こそされていないものの、この時すでに糸賀の胸中に確実に宿っていたといえよう。

「重症児の価値」は、生命だけにあるのではない。自らの価値感が転換していくなかで、彼らも「発達」するのだということは、糸賀の確信となっていった。「永遠の幼児」という近江学園設立当初の「重症児」観から、「内面性への深まり」や「個々人の生き甲斐」の追求を重症児教育の本質であると捉え直すに至った糸賀の思想遍歴は、それまでの彼自身の思考の枠組みと格闘する過程でもあったに違いない。

「横(横軸)の発達」という命名

そのころ日本は、高度経済成長の真っただ中にあった。「国民所得倍増計画」のかけ声の下、教育の分野においても公然と〈(精薄児)は自ら進んでよりよき社会の形成者となることは自ら限界があり、自ら成しうる道は他人と社会の厄介になるのではなく、自分のことは自分で始末し、社会的に自立ができるということである。この限界をはっきりと見きわめるところに精薄教育の本質がある〉(30)と示され、能力主義が徹底されていた。こうした時代背景にあって、「社会的に自立」することが困難な重症児たちは当然のように教育からは除外されていた(31)。

このように、障害研究、発達研究においても、知能検査の結果で人間の能力を輪切りにし、通常との比較において知的障害の劣弱性を類型的に明らかにするものが一般的であった。

こうしたなか、一九五六年より研究室主任として近江学園に勤めた田中昌人は、それまでの精神薄弱児の類型学的研究、心理学的検査法等がもつ問題点などをまとめ、新たに様式学的研究の立場に立って発達研究を行った。

「土曜会」のリーダーの一人であった田中は、そこでの討論を通して一九六一年に「発達保障」という用語を提唱し、その内容を理論的に提起した(32)。この理念を実践に生かすために、近江学園では新しい教育体制が編成され、田中は子どもたちの発達的特徴の質を理論的に再構成し続けた。さらに、「発達の質的転換期」を解明するための実験的研究を積み重ねた結果、発達を「可逆操作獲得の過程」(33)と捉えるに至った。こうして、発達は上へのびるだけでなく、〈同一可逆操作特性の交換性を高めていくことによって、代理不可能な主体性を形成していく〉(34)ものであることを明らかにした。

そして、一九六六年八月の論稿で、田中は「同一可逆操作の交換性を高める方向」の発達を、初めて「横への発達」と命名した(35)。田中はこのとき、新教育体制において最も重症な子どもたちの集団である「第1教育部」での実践(一九六三年)を挙げ、〈このトミ子さんをめぐる実践は第1教育部に〝横〟への発達、〝間〟の指導の中味の展開を考えさせることになりました〉(36)と述べている。この頃の近江学園では、職員たちが子どもたちの内面に働きかけ、それを豊かにすることを目指した実践が繰り広げられていたことから、それらが「横(横軸)の発達」の命名に不可欠な要素となったのである。

同じ頃、創設から三年余り経ったびわこ学園では、重症児の〈予想外ののび〉(37)が認められるようになっていた。当時園長だった岡崎英彦らは、この重症児の変化について、〈〝たて〟への育ちというより、〝よこ〟への育ちといえるもので、行動にゆたかさが見られる〉(38)と記している。一九六六年十一月のことである。これらのことから、「横(横軸)の発達」という四(五)文字は、実は糸賀一雄によって「発見」あるいは「提起」されたのではなく、田中昌人(ら)によって命名されたことが分かる。しかし、その命名には、近江学園、びわこ学園での数年にわたる粘り強い実践による証明が背景にあったといえよう。

〈風の中の灯のような生命も、その発達がしっかりと保障される仕組みを実現し、どんな生命も、生まれてきた甲斐があったことを、何かの形で実証しなければならない〉(39)。糸賀は探していた。重症児の価値を「生命」そのものにおくこと。それは何物にも代えられない。しかし、その先に、教育者としてもっと追求すべきものがあるのではないかと。重症児の生命の躍動とともにある「心の動き」。そこにある「主体性」。それらに触れ、子どもたちの変化を前にして、職員自身が、そして職員の子どもを見る目が変容していく姿を間近に見ていた糸賀は、何とかこの事実を世に伝えなければならないと語り続けていた。

そして、ついに一九六六年、糸賀が探し求めていた「重症児の発達」を的確に表す用語、「横(横軸)の発達」は、活字としてようやく日の目を見ることになったのである。

近江学園・びわこ学園での実践の上に、田中(ら)が理論的に明らかにし、命名した「横(横軸)の発達」という四(五)文字は、糸賀が自問自答し続けた「生命の先にある重症児の価値」を示すものにほかならなかった。

「横(横軸)の発達」〜糸賀による語り

〈学園の人たちが、縦軸の中にではなく横軸の中にこそ発達の広がりがあることに気づいたことは、もう見込みがないと思って希望を失いかけていた時だけに、大変な力を与えてくれました〉という一文に始まる糸賀の語り(40)。糸賀は、「横(横軸)の発達」を〈かけがえのないその人の個性〉(40)と述べている。

糸賀は言う、〈横軸の発達は無限〉(41)であると。〈もうA子ちゃんはA子ちゃんなんだという個性が一歳なら一歳のなかに、豊かに豊かになって行く〉(40)、この無限の横軸の充実は、人生の充実と一致すると説いた。そして、重症児の人生には障害克服の努力とともに、今の生活を豊かにするという方向で、無限の発達の可能性に挑戦するという意義があること。それは、万人に共通の「人生の価値」であると結論づけたのである。かつて「白痴の人たちの幸せとは」と自分自身や職員たちに問うた、その命題への答えであった。

〈人間の価値はこの縦軸の比較の世界で相対的に評価されるばかりでなく、横軸への無限の挑戦の中に見られる絶対的な価値の基準をもっている〉(42)。「重症児の価値」を「横(横軸)の発達」の中に見いだした糸賀は、人間的矛盾、社会の矛盾に対して自ら問い続けてきた「人間の価値とは」という根源的な問いの答えを、ようやくにして得たのである。糸賀五四歳、その生涯を閉じる一九六八年のことであった。

こうして糸賀は、「横(横軸)の発達」という言葉を用いて語り続けた。〈そういういろいろとちがった発達の段階のどれを見ても、その発達段階なりの生活がある。その生活が、ただ寝ているだけであっても、這うだけであっても、またやっと立っているだけであっても、豊かな内容のあるものに育てられるかどうかが問題なのである。縦軸の発達でほとんど絶望であっても、横軸の発達は無限といってもよい〉(43)。世間では、価値なき者とされる重症児の価値はここにあるのだと、世に知らしめるために。

糸賀はまた、「無限な横(横軸)の充実」を形成するのが教育であると唱えた。さらに、それを受け止め、可能にする社会を希求した。〈三歳の精神発達でとまっているように見えるひとも、その三歳という発達段階の中身が無限に豊かに充実していく生きかたがあるのです。生涯かかってもそれを充実させていく値打ちが充分にあるのです。そういうことが可能になるような制度や体制や技術をととのえなければならない〉(44)と。

そして、〈二〇世紀も既に三分の二を経過したいまの時点で、私たちは、まだ夜明け前の闇のなかにうごめいているたくさんの子どもたち、その名を心身障害児という子どもたちを、あまりにもたくさんかかえているのである。その人権と福祉は果してまもられているといってよいのであろうか〉(45)と社会に問い続けながら、「横(横軸)の発達」概念が人びとの心の中に浸透することによって、「夜明け前」の闇の中におかれる重症児たちに「夜明け」を迎えさせてやりたいと切に願ったのであった。

「横の広がり」〜「無限の可能性」「無限な充実」「無限の挑戦」

ところで、糸賀の主要著作とされている『この子らを世の光に』(一九六五年)、『福祉の思想』(一九六八年)、『愛と共感の教育―最後の講演録』(一九七二年)の中には、「横(横軸)の発達」を指し示す内容はあっても、この四(五)文字の記述はない。なぜ糸賀は、主要著作の中で、この言葉を(あえて)使用しなかったのか。

さらに、一九六六年から一九六八年までの一九八点におよぶ著作物の中で、「横(横軸)の発達」という用語は、わずか八点のなかにしか登場しない。どうして糸賀は、「横(横軸)の発達」という言葉をもっと用いて、積極的に語ろうとしなかったのか。 糸賀の代名詞ともいわれる「発達保障」という言葉は、一九六三年の『教育時報』に書かれた「発達の保障」が最初であった(46)。一九六一年に学園内で提起されてから、糸賀が文書において公にするまでに二年もの歳月がかかっているのである。

用語を単なるスローガンとして用いるのではなく、実践の事実が一定の成果をあげたとき、自信と責任をもって使用するという糸賀の姿勢は、「横(横軸)の発達」に関しても変わらなかった。そして、もし糸賀が五四歳という若さでこの世を去ることがなかったならば、「横(横軸)の発達」は糸賀自身によるどのような言葉としてさらに結実していたであろうか。

ここでは、糸賀が言い換えて用いた言葉、すなわち「横の広がり」に注目してみたい。糸賀が、一九六六年に初めて「横(横軸)の発達」について述べた際、彼は「横の広がり」という言葉を用いて、〈このあらゆる発達段階の中で、むしろ発達段階そのものは横の広がりが中味である〉(40)と述べた。

〈縦軸の発達でほとんど絶望であっても、横軸の発達は無限といってもよい〉(47)と糸賀が言うように、発達段階の「中味」である「かけがえのないその人の個性」が、「ぐんぐん形成」されることで、「豊かに、豊かに」なっていく「横の広がり」。それは「無限」であるという。それでは、発達段階の「中味」=「かけがえのないその人の個性」が「豊かに」なるとは、どういうことか。一九六五年の資料の中で、糸賀は縦軸と横軸の発達について図を描いて説明している(48)。その図では、「縦軸」の伸びる先に「発達」、「横軸」の線上に「豊かさ」と記している。そして「横軸」の線下に「関係の発達」と記している。

冒頭のラジオ出演で、糸賀は重症児のもつ「感情の世界」に触れている。さらに、療育映画「夜明け前の子どもたち」の撮影フィルムにある子どもたちの生き生きとした姿―〈この子たちは、生ける屍といわれていた。なされるがままになっているものと思われていた。しかし、そうではなかったのである。立派な意志があり、意欲があり、自己主張があった。外界から刺激をうけとるだけでなく、外界にたいし、先生や友だちにたいし、はたらきかけているのであった〉(49)に胸を衝かれ、そこに重症児と療育者との「共感の世界」(50)を見いだしている。  重症児と療育者、すなわち、人と人との関係がどんどん築かれていくことで広がっていく「共感の世界」と、それによる「豊かさ」の深まり。図の「横軸」が示す矢印の先には、「共感」によって無限に豊かに広がる「個性」が想像できるであろう。

糸賀はまた、(一見、何の変化もないかに見える重症児の姿に対して)〈よく見ると、遅々とした歩みのなかに、以前とくらべてどこかしっかりしたところが見えてきたり、表情に複雑さが出てきていたり、幅の広い豊かな反応が見られるようになっていたりするのである。三歳という精神年齢をなかなか越えることができなくても、三歳なりの豊かさが増しているということはいえそうである〉(51)と述べ、「豊かさ」の内実を説明している。「どこかしっかりした」、「表情が複雑になった」、「幅の広い豊かな反応」があった―数値的には測定できないが、療育によって重症児の心が揺さぶられ、「感情の世界」が満たされた結果、以前と比べて深みを増して現れてくる彼らの姿。糸賀は、これこそが「横軸の充実」であるとし、それは「無限」であると唱えたのであった。

さらに糸賀は、〈無限な横軸の充実、そこにその子どもの人生の充実が期待される〉(52)と続ける。「絶望」ではない、「期待」である。なぜなら、「横軸」には「無限の可能性」があるのだから。〈その障害を克服する努力とともに、いまの生活を豊かにするという方向〉(52) で、彼らには「無限」に広がっていく「可能性」があると、主張するのである。

一九六七年から一九六八年にかけて、糸賀の「横(横軸)の発達」は、より成熟していく。「挑戦」という言葉を用いて、主体は重症児にあることを明示し、彼らが「横軸」である彼ら自身の「中味」を、「無限」に、豊かなものにしようと「生涯をかけて」挑んでいることを訴える。これが、〈ヨコ軸の無限の可能性への挑戦〉(53)である。どれだけ自分の「中味」を豊かにできるか―だから「横軸」には「可能性」がある。「横軸」は〈無限にひろがってゆく未知の発達の可能性〉(54)なのである。そして、「可能性」があるから「希望」がある。

糸賀は言った、〈希望がここにひろがります。どんなに障害がひどくても、その発達の段階のなかに、一歳は一歳として、三歳は三歳として、それは私たちが四十歳、五十歳の人生のもつ意味と同じ価値をもつものとして、むしろ人生の「意義」を包蔵している事実に気がつくわけなのです〉(54)と、重症児の「横の広がり」の中に、万人の「人生」の意義を見いだしながら。

自身が探し求め、田中昌人らと近江学園、びわこ学園での実践がその命名を可能にした「横(横軸)の発達」という四(五)文字の真意を、「横の広がり」という自分自身の言葉で語り続けた二年間であった。たとえ寝たきりであっても、重症児は、彼ら自身の「中味」を「無限」に「豊か」に深めようと、生命を躍動させている。そこには、彼らの人生の「可能性」があり、「希望」がある。それは、私たち自身の人生の「可能性」、そして「希望」と何ら変わるものではない。

糸賀が遺した「横の広がり」という言葉は、どこまでも私たちに、「人生の意義」を伝えるものであった。

一九八四年から一九九七年までの一三年間、びわこ学園の園長を勤めた髙谷清は、糸賀の遺志を受け継ぎ、「ヨコへの広がり」という言葉を用いて「発達」における糸賀思想を語っている。〈人間というものは、どのような重い障害があろうと、人間としての発達のみちゆきを歩むこと、上へ向かう発達には限界があっても、その発達の状態でのヨコへの広がりといえる無限の世界が存在すること、そこに生きる喜びがあり、豊かな個性が形成される〉(55)と。

髙谷は、糸賀の「横(横軸)の発達」、「横の広がり」を継承した。そして、〈「ヨコ」への無限の可能性を生きていく豊かさこそが、生きているよろこびであり、うれしさであり、たのしさである〉とした。さらに、〈「ヨコ」は豊かさの世界であり、そして生きているよろこびの内容は個人によって違いがあり、人間の「個別性」がある。それらのことを考えると、「ヨコへの発達」といわず「ヨコへの豊かさ」と言うのがよいのではないか〉(56)と問題提起して、「横(横軸)の発達」概念を発展・深化させている。

おわりに

〈今日もまた重い障害をもった子どもがうみおとされている〉(57)。筆者はかつて、助産師として新生児集中治療室に勤務し、生まれて間もない赤ちゃんの生と死の狭間の闘いの現場に身を置き、苦悩した。また、ある年の大晦日のこと、「国境なき医師団」の一員として、大阪・釜ヶ崎での野宿者支援活動をしていた筆者は、ある人の言葉に耳を疑った。新年を迎えることができず、極寒の路上でひとつの生命の灯が消えたが、「どうせ、野宿者、自分の責任だろ」と。

その後、一大決心をして教員免許を取得し特別支援学校の教員となって、現在、超重症児と呼ばれる子どもたちと共に学び、学校生活の中で彼らが「生きる力」を太らせていく姿を目の当たりにしている。筆者自身が糸賀思想と重症児教育実践に出会えて、開眼された経験を持つ。

ところで、糸賀が生きていたら今の社会をどのように見るだろう。「夜明けはそれなりに来た」と、満悦の表情をみせるだろうか。

確かに、今は、医学の進歩によって手のひらにのるような生命さえも救えるようになった。重症児を取り巻く社会情勢も、ぐっと前進した。糸賀の生きた時代よりも、社会の制度や体制は整備された。しかし、糸賀が「自分自身との対立」を告白することによって世に問い続けた「人びとの心の在り方」はどうか。私たちは、「重症児の価値」、ひいては「人間の価値」を「横(横軸)の発達」の中に認め、さらには「横の広がり」として、生命の「無限の可能性」「無限な充実」「無限の挑戦」を温かく見守ることができているだろうか。

 糸賀は、「横(横軸)の発達」を、常に人生と重ね合わせて語っていた。重症児だけではない、誰もが迎える老い、到来しつつある超高齢化社会、癌や難病との闘病、こころの病など、一人ひとりがその人生において抱える苦難は一様ではない。

誰もが、生まれてきたことの歓びを感じ、過ぎゆく時の中で精一杯の自己を開花させることができる世の中になることを、糸賀は今なお願っているであろう。この世に生を享けること、その尊さを自覚し、「無限の生命の充実」に価値を認める社会は、未来を築く私たち一人ひとりの心で紡いでいくものであるといえよう。

世界に目を向けると、今もなお、天災や紛争、飢餓やHIVの蔓延に、日々、必死に生命を繋いでいる人々がいる。遥かカンボジアの農村で命がけの出産を手助けしたことは、筆者の脳裏に焼き付いている。こうした状況に喘ぐ人びとにも届けなければならない。生命は、「横軸に無限の発達がある」ことを忘れてはならないと。

「横(横軸)の発達」「横の広がり」をめぐる糸賀の苦悩と語りは、過去から現在、未来社会への、またわが国から世界中の人びとに届ける、思想的遺産である。

【謝辞】

本論文を執筆するにあたり、貴重な資料を提供していただきました社会福祉法人大木会の齋藤昭理事長、近江学園の森本創さん、元びわこ学園の西島悟司さんに、心より感謝を申し上げます。また、筆者の照会に対して丁寧にご教示くださったNHK放送総局の牧野望チーフプロデューサー、文献一覧をご提供いただいた田園調布大学の冨永健太郎さんに、心より感謝を申し上げます。

参考文献
  • 療育記録映画「夜明け前の子どもたち」。一九六七年四月撮影開始(制作・財団法人大木会心身障害者福祉問題綜合研究所、監修・糸賀一雄、制作委員長・田中昌人)。
  • 筆者の照会に対する二〇一三年六月七日付けの返信メールによる。
  • 冨永健太郎「先行研究文献リスト」(平成二一年現在。二〇一三年)。
  • 石野美也子「糸賀一雄、その求めたもの―この子らを世の光に―」『消シテハナラヌ世ノ光 近江学園創立五〇周年記念誌』(「近江学園創立五〇周年記念誌」編集委員会、一九九六年、155頁)。
  • 池田和彦「糸賀一雄の福祉哲学」『佛教福祉学』(種智院大学佛教福祉学会編、一九九九年、103頁)。
  • 京極髙宜『この子らを世の光に 糸賀一雄の思想と生涯』(日本放送出版協会、二〇〇一年、169頁)。
  • 丸山啓史、河合隆平、品川文雄『発達保障ってなに?』(全国障害者問題研究会出版部、二〇一二年、31~32頁)。
  • ①「横への無限の発達」と記述。糸賀一雄「ことばなき自己主張」(中部日本新聞、一九六八年)。糸賀一雄著作集刊行会編『糸賀一雄著作集Ⅲ』(日本放送出版協会、一九八三年、355~356頁)。
    ②「豊かな発達が期待されるための、ヨコ軸の無限の可能性への挑戦」と記述。糸賀一雄「豊かな深い生活の探究―皇太子殿下ご夫妻におめにかかって」『まみず』第三巻、第八号(一九六八年、10~13頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(290~292頁)。
    ③〈いわば横軸の、つまりあらゆる発達段階のなかに、無限にひろがってゆく未知の発達の可能性を秘めたものとして…〉と記述。糸賀一雄「障害児をもった親の心の支え」『まみず』第三巻、第九号(一九六八年、41~46頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(292~294頁)。
  • ①「横軸における無限の豊かな発達」と記述。糸賀一雄「重症心身障害児の福祉対策に望む」『厚生』第二二巻、第四号(一九六七年、11~15頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(439~443頁〕。
    ②「横軸の発達」、「横軸の発達は無限」、「横軸の充実」、「無限な横軸の充実」、「無限の発達の可能性」、「横軸への無限の挑戦」として記述。糸賀一雄「施設養護の将来」『施設養護論』(糸賀一雄、積惟勝、浦辺史編、一九六七年、266~267頁)。
    ③「横軸の発達」として記述。糸賀一雄「『福祉の思想』構想メモ」(未公刊資料、一九六七年、1頁)。
  • 「横軸の中にこそ発達の広がりがある」、「横の発達」、「横の広がり」として記述。糸賀一雄「この子らを世の光に(二)―重症児の生産性について―」『両親の集い』第一二八号(一九六六年、19頁)。
  • 「重症児の生き甲斐」と題して用箋三枚に書かれたものであるが、〈鯉のぼりや河原の石運びや、寝たきりのベッドのなかで味わったよろこび〉と、療育映画「夜明け前の子どもたち」における内容を示した記述があるため、恐らく一九六七年または一九六八年に書かれたものと推測される。
  • 糸賀一雄「発達の保障」『教育時報』第一四巻第六号(一九六三年、13~16頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(日本放送出版協会、一九八三年、247~250頁)。
  • 因幡一碧「精神薄弱児の運命」『近江学園年報』第二号(一九五〇年、143頁)。
  • 森博俊「精神薄弱教育における子ども把握の視点―糸賀一雄の場合に即して―」『教育学研究』第四六巻、第二号(日本教育学会、一九七九年、44~53頁)。
  • 河合隆平「発達保障思想の水源―糸賀一雄の思想と実践に学ぶ」『障害者の人権と発達』(全国障害者問題研究会出版部、二〇〇七年、72頁)。
  • 清水寛「戦後障害者福祉と発達保障―近江学園における糸賀一雄の『発達保障』の立場にたつ福祉思想の形成過程」。吉田久一編著『戦後社会福祉の展開』(ドメス出版、一九七六年、469頁)。
  • 糸賀一雄「近江学園『さくら組』の記録」『ひかりまつ子ら』(国土社、一九五四年、98頁)。
  • 糸賀一雄「まえがき」『近江学園年報』第七号(一九五五年)。
  • 岡崎英彦「療護クラス『杉の子』―ノイローゼ、アテトーゼ、テンカンの子ら」『近江学園年報』第七号(一九五五年、132~133頁)。
  • 因幡一碧「教育の本質」『手をつなぐ親たち』第四号(一九五六年、4頁)。
  • 岡崎英彦「療護児童の記録」『近江学園年報』第八号(一九五八年、164頁)。
  • 前掲16(481頁)。
  • 糸賀一雄「精神薄弱者と社会」『手をつなぐ親たち』第五一号(一九六〇年、10~18頁)。
  • 糸賀一雄「まえがき」『近江学園年報』第九号(一九六〇年)。表紙には『近江学園年報 No.九、一九六一』と記載があるが、「まえがき」の日付は一九六〇年一二月一六日。田中昌人「全障研の結成と私の発達保障論」全国障害者問題研究会編集・発行『全障研三十年史』(一九九七年、439~575頁)。田中昌人著、大泉溥編『日本の子ども研究―明治・大正・昭和―第一三巻 田中昌人の発達過程研究と発達保障論の生成』(クレス出版、二〇一一年、762頁)。
  • 糸賀一雄「ヨーロッパの精薄施設を見て感じたこと(二)」『愛護』第八巻五号(一九六一年、1~4頁)。
  • 岡崎英彦「解説」『糸賀一雄著作集Ⅲ』(484~499頁)。
  • 糸賀一雄「社会の変化のなかに立つ家庭教育」(未公刊資料、一九六四年、19頁)。
  • 糸賀一雄「社会福祉施設について―重症心身障害児施設の必然性」『兵庫県社会福祉協議会「第五回社会福祉夏季大学講議録」』(一九六五年、109~131頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(360~372頁)。
  • 糸賀一雄「ゆたかな発達を」『滋賀社会福祉』第八三号(一九六五年、3頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(349~350頁)。
  • 林部一二「特殊学級における職業教育」『学校運営研究』三月号(一九六六年、101頁)。
  • 田中昌人『講座 発達保障への道②夜明け前の子どもたちとともに』(全国障害者問題研究会出版部、一九七四年、59~64頁)。
  • 田中昌人「研究部のあゆみ」『近江学園年報』第九号(一九六一年、218頁)。
  • 田中昌人、田中杉恵、長嶋瑞穂「第四報告 発達保障の立場から」(日本心理学会第三一回大会、シンポ「幼児の行動発達と就学年齢」一九六七年)。田中昌人著、大泉溥編、前掲24(74~75頁)。
  • 田中昌人『すべての子どもの発達の権利をかちとるために』(大阪京都滋賀発達保障研究会、一九六六年)。田中昌人著、大泉溥編、前掲24(601~660頁)。
  • 前掲34(622頁)。
  • 前掲34(635頁)。
  • 岡崎英彦「子どもたちとの生活」『岡崎英彦著作集』(医療図書出版社、一九九〇年、137頁)。
  • 岡崎英彦、小池清兼、森敏樹『重症心身障害児療育の基本的問題―びわこ学園報告一』(心身障害者福祉問題綜合研究所、一九六六年、44頁)。
  • 糸賀一雄「静かなる迫力」『びわこ学園だより』創刊号(一九六四年、2頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(251頁)。
  • 糸賀一雄「この子らを世の光に(二)―重症児の生産性について―」『両親の集い』第一二八号(一九六六年、19頁)。
  • 前掲9②『施設養護論』(267頁)。
  • 糸賀一雄「特殊教育の思想的背景」『特殊教育事典』(第一法規、一九六七年、11~13頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(402頁)。
  • 前掲9②(266~267頁)。
  • 糸賀一雄「この子らを世の光に」『手をつなぐ親たち』第一二八号(一九六六年、48頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(274~275頁)。
  • 糸賀一雄『福祉の思想』(日本放送出版協会、一九六八年、118頁)。
  • 前掲12(247頁)。
  • 前掲41(267頁)。
  • 糸賀一雄 第二回鳥取県特殊教育研究大会でのメモ(未公刊資料、一九六五年)。
  • 前掲45(116~117頁)。
  • 前掲11(2頁)。
  • 糸賀一雄「教育を考える ことばなき自己主張」(中部日本新聞、一九六八年)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(355~356頁)。
  • 前掲41(267頁)。
  • 糸賀一雄「豊かな深い生活の探究―皇太子殿下ご夫妻におめにかかって」『まみず』第三巻、第八号(一九六八年、10~13頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(290~292頁)。
  • 糸賀一雄「障害児をもった親の心の支え」『まみず』第三巻、第九号(一九六八年、41~46頁)。『糸賀一雄著作集Ⅲ』(292~294)。
  • 髙谷清『異質の光―糸賀一雄の魂と思想』(大月書店、二〇〇五年、262頁)。
  • 髙谷清「『ヨコへの豊かさ』と『タテへの発達』」『人間発達研究所通信』一一〇(二〇〇七年、8~11頁)。
  • 前掲45(15~16頁)。
  • 1)『糸賀一雄著作集ⅠⅡⅢ』(糸賀一雄著作集刊行会編、日本放送出版協会、一九八二〜一九八三年)。
  • 2)冨永健太郎『糸賀一雄年譜・著作目録』(社会福祉法人大木会発行、ニ〇〇八年)。
垂髪 あかり大阪市立西淀川特別支援学校 教諭

⼤阪市⽴西淀川特別支援学校教諭。看護師。助産師。

垂髪 あかり