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レポート・コラム
糸賀一雄の福祉思想の形成と近江学園保母の生活と実践

  • 黒川 真友立命館大学大学院社会学研究科 博士前期課程2回生

糸賀一雄生誕100年記念事業実行委員会では、2014(平成26)年の糸賀一雄氏生誕100年を記念し、糸賀氏の思想の今日的意味を明らかにし、これからの社会に活かしていくことを目的とした論文集を発行いたしました。この論文はその一環で募集した「公募論文」のうち、佳作に選ばれたものになります。
その他の作品を収めた論文集は、下記リンクからダウンロードしていただくことができます。どうぞご覧ください。

糸賀一雄生誕100年記念論文集のページ

はじめに

糸賀一雄(以下、糸賀)は、一九六八年の著『福祉の思想』において、どんなに障害が重い子でも〈普通児と同じ発達のみちを通るということ、どんなにわずかでもその質的転換期の間でゆたかさをつくるのだということ、治療や指導はそれへの働きかけであり、それの評価が指導者との間に発達的共感をよびおこすのであり、それが源泉となって次の指導技術が生みだされてくる〉(1)と述べ、子どもの発達する権利とその保障を目指す発達保障の思想を確立した。

糸賀の福祉思想は、実践での多くの試行錯誤と新たな子どもの姿の発見があり、その事実の積み上げのなかで形成されてきた。そして、実践を担ってきた職員の存在は大きく、なかでも子どもと生活をともにしてきた当時保母と呼ばれる女性職員の役割は重要であった。本論では、この糸賀の福祉思想の形成に寄与した一つに近江学園における保母の実践があったと仮説を立て、糸賀の福祉思想の形成過程を保母の実践との関係で明らかにしていく。同時に、糸賀の福祉思想の形成のなかで保母の役割や専門性が明確になり、近江学園内における保母の捉え方が変化していくことをみていく。

近江学園は戦災孤児・生活困窮児・精神薄弱児(現在の知的障害児)を対象とした生活保護法の救護施設として、糸賀らによって、一九四六年一一月一五日に大津市南郷に設立された。その後、児童福祉法の施行に伴い一九四八年に「児童養護施設兼精神薄弱児施設」として認可され、滋賀県立近江学園となる。

近江学園の保母は、子どもと寝起きをともにしており、子どもの生活を「母代わり」となって支えていた。保母の生活は「四六時中」子どもと一緒であり、一息つく暇もなくその世話に追われていた。その背景には、子どもの貧困な生活があり、子どもらを支えるための体制が必要とされていた状況があった。そこでの保母は、子どもの「母代わり」となることで、起居を共にし、生活全般を背負っていた。

糸賀は、先の著作で保母が重症心身障害の子のおむつを替えようとした時に、その子が自分の力を使って腰を上げている姿をみて、保母が自らの仕事の重みを感じたことを示し、重い障害を持っている子どもも自己実現をしていることを見出した(2)。ここでは、保母の実践によって、自らの力を使って腰を上げている子どもの姿が発見され、その事実から「自己実現している」と捉えた糸賀の思想の発展があり、さらにそれを受けて保母が「自らの仕事の重みを感じ」るようになるという保母の実践の深まりがある。糸賀の福祉思想は、このような保母の実践との還流のなかで形成されてきたといえよう。

以下、近江学園の在籍児童の量と質の変化を考慮に入れて、三つに時期区分し、各々の時期における保母の実践と、糸賀の福祉思想の発展内容を明らかにしていく。なお、本論では糸賀の思想の形成と保母の実践を取り上げるため、学園の創立期から一九六〇年代までを対象とする。各時期の学園の特徴と社会的な動向は以下の通りである。

第Ⅰ期は、一九四六年~一九五〇年とし、戦後の混乱期による貧困と病気に対応する時期である。戦後の混乱とアメリカの占領下のなかで、戦争の放棄と基本的人権の保障を謳った日本国憲法が施行され、憲法に基づいて児童福祉法などの福祉三法が確立される。当時は国民全体が窮乏にあえいでおり、困窮者対策が尚早の課題であった。日本国憲法によって基本的人権の尊重が謳われたものの、その一方で障害者観や政策に関して戦後長らく差別や劣等処遇の温床となった「優生保護法」が施行される。

第Ⅱ期は、一九五〇年代とし、養護児と障害児の生活と教育を保障しつつ、対象児童が重度化・年長化していく時期である。障害福祉・教育関係の施策が成立する一方、日米安保条約の調印や自衛隊・防衛庁の設立などアメリカによる占領政策の転換により、軍事増強と経済成長が目指されるようになる。高度経済成長の志向から教育への介入が始まり、能力主義的政策が強まっていく。児童福祉施設の入所においては、就学猶予・免除を受けたものを原則とするなどの教育からの排除が強められ、合理化や能力主義にもとづく劣等処遇が進められる(3)。

第Ⅲ期は、一九六〇年代とし、学園の対象児が障害児のみになり、重度化が進行し、新たな指導体制が必要とされる時期である。重症心身障害児への施設が整備されたり、措置費が改善されたりするが、その背景には政策的な能力主義の貫徹とそれに対峙する運動とのせめぎ合いがあった。高度成長の盛り上がりに伴い経済成長最優先の政策が強められ、教育において経済政策にそった「教育投資論」や「人的能力開発」が語られるようになる(4)。

一.第Ⅰ期 戦後の混乱期における貧困と病気への対応

1 第Ⅰ期における学園の状況

近江学園は、当初の救護施設から児童福祉法の制定後に「養護施設兼精神薄弱児施設」として法的に位置づけられ、一九四九年四月に児童施設のなかに小・中学校の分校が設置されたことで、児童福祉施設兼教育機関となった。各学年一名の教員がおかれ、児童指導員兼務となり、「児童福祉法と学校教育法の提携」が実現する(5)。この分校設置によって近江学園では、特殊な教育を学園内部で実施していき、養護児と障害児の教育と生活を支える施設として成立した。この頃は、誰もが生きることに精一杯だった時期であり、食料の確保や学園運営の財政のやりくりに難渋していた。厳しい状況のなかで、学園をつくり上げていくために、〈一.四六時中勤務、二.耐乏の生活、三.不断の研究〉という、「近江学園の三条件」を職員のモットーとして掲げた(6)。

この頃の支援の内容は以下のように紹介されている。一九五〇年三月には定員の一五〇名を超える児童が入園したが、知的障害児より養護児の割合が多かった。そして一九四七年に導入した知能検査を参考に「境遇・年齢・性格・能力などを基準」に集団の編成がなされた(7)。また同時期には、養護児から初の就職者を出し、職業指導やアフターケアが強化されていく。さらに、「重症痴愚・白痴児」のための終身保護を目的とした落穂寮を建設(一九五〇年開所)した。

職業指導や年齢、障害の軽重といった子どもの実態に合わせたカリキュラムや生活指導、施設建設が具体化しはじめる。特に課題として挙げられていたのが、児童福祉法での措置の対象外となる18歳以上の年齢超過児の就職・進路の問題であり、そのため実践の内容は作業学習をつうじて仕事につく上での技能と態度の養成に重点が置かれていた。

2 第Ⅰ期における糸賀の思想と学園の実践

糸賀は、「福祉と教育は原理的に同じものであるべきである」と述べ、生活と教育は一体のものとして、生活即教育という理念を掲げていた。〈生活と教育といった二つのものがあるのではなく、凡てが生活であり、凡てが教育である。(略)それは単に生活を仲介としてといふのではなく、生活そのものの充実発展として実現されるものでなければならない〉(8)と述べている。このように当初から子どもを保護するという目的のみでなく、生活を含めたすべての場面で教育的視点を重視していた。そして、生活を支える保母も含めた学園の職員全員が教育者だと考えられていた(9)。

しかし、この頃の糸賀の障害児観には、職業的自立を目指す教育において障害の重い子どもは想定されておらず、「重症痴愚・白痴」の社会的自立を目指した教育については不可能に近いと判断していた(10)。それは重度知的障害児の「終身の保護」を目的とした落穂寮建設にも現われていた。社会性を身につけ職業的生活に入っていける子への教育と、社会性を有しない重度の子のための終身の保護が必要であるとしていた(11)。

したがって、糸賀が構想したこの頃の近江学園における実践の方向性は、就職して自立した生活を送るための「社会性」を身につけることであった。生活指導の実践は、基礎的な生活を成り立たせるための健康の維持、夜尿の対策、「非行」への対応が主であった。その内容は、職業生活ができるための具体的な生活能力の向上が目指されており、毎日の規則正しい生活を送ることができるような習慣をつくる訓練をしていた。

「社会性」も自己自身を鍛錬して現実への正しい認識と勤労の喜びを知ることにあり、学園を出て職業に就いてからの「荒波の人生」を乗り切っていくための力とされていた(12)。なお、この背景には学園が置かれていた厳しい社会的状況があり、年齢超過児の進路の課題が大きくなっていたことがあった。

3 第Ⅰ期における保母の生活とその役割

糸賀は、当時の保母を以下のように捉えていた。〈保母は起床と同時に、その部屋の主婦のように立ちはたらいた。(略)生活そのものが彼女の肩にかかっていた〉とあるように、保母は子どもの朝から夜までの生活に必要な世話を担っていた。そして、〈子どもの寝顔を見て繕い物をしながら明日の教育計画をたてるひと時が、彼女たちの唯一の慰安の時間〉であり、こうした保母の姿から〈すべての保母は、母以上の母であった〉と述懐している(13)。

さらに、子どもの「情操陶冶」のためにも〈保母がやさしい母親や姉の様な立場になって、その(子どもの:筆者注)心に肉迫せねばなりません〉(14)と述べ、これらから保母の役割は、子どもの身辺の世話、家事とともに「母代わり」となって子どもの心に寄り添うことであるとされていた。

そして、保母の生活は子どもと同じ部屋で寝起きをしており、四六時中勤務という言葉は当時そのままの実態を意味していた。保母の仕事は、児童の健康管理、衣食の世話、掃除など、生活に関わる家事と子どもの生活面への指導・世話であった。当時は浮浪児を保護していたため、児童の健康管理が重要課題であり、その役割を医務部の指導下で担っていたのが保母であった。また、夜尿への対策が問題であり、毎朝の保母のきまった仕事の一つが夜尿等の後始末であった。

生活の指導においては、劣等意識を抱えている学園の子どもにとっての「情操陶冶」が必要であるが、その仕事が洗濯等の仕事に追われてなかなか思うようにいかなかった。そのため、糸賀は〈保母の日常が真に園児の円満な発達に充分に寄与する〉ための方策をたてることが学園のさしせまった課題だと考えていた(15)。

第Ⅰ期は、国民全体が窮乏に喘いでいる状況にあって、浮浪児や障害児を抱えた近江学園は、生活を安定させることに尽力していた。貧困や健康問題に対することが目下の課題であり、そのうえで生活即教育という理念のもとで、すべての生活が教育として捉えられていた。実践の目的は、養護児や軽度知的障害児を社会に出すための職業教育に収斂されており、重度知的障害児に対しては「終身の保護」を必要とする分類処遇的なものであった。この頃の糸賀による障害児観は現代からすると課題を含んではいたが、重度知的障害児を教育から完全に排除したわけではなく、「保護」のなかでも必要な生活習慣を身につけさせる指導を行おうとしていた。

生活指導を担っていた保母は、生活を安定させる上での健康管理などの世話と、洗濯・家事に傾注していた。加えて、子どもの心の「情操陶冶」を行う役割をもち、これらのことから「母代わり」であるとされていた。一方で、生活即教育という理念のなかで、当初から教育者としての位置づけがなされており、「母以上の母」としての役割も持っていた。このように実態としては家事・世話に追われ、「母代わり」とされながらも、教育者として位置づけられていたことによって、後に子どもの姿を捉える実践ができ、糸賀の思想の発展のなかで、保母が指導技術の形成と自らの役割を明確にしていくことにつながっていく。

二.第Ⅱ期 重度・年長化と新たな施設の建設

1 第Ⅱ期における学園の状況

一九五〇年代の近江学園では、養護児が就職していくことに伴い、障害児の比率が増えてきていた。年齢超過児の進路が課題となり、その対応として信楽寮・あざみ寮・日向弘済学園の建設がなされる。就職していった子どものアフターケアを行う一方で、新しい困難な問題として、重度・重複の障害児の問題が出てきた。「杉の子組」と呼ばれる重度・重複障害児のクラスを学園内の医局に設け、その子らへの療護が開始される。

一九五八年に学園は、養護児の一部を「通学班」として地域の学校へ通学させ、この班の開始を契機に障害児教育に専心することになる。重度・重複の子のクラスである「すぎ組」の子どもの死亡が相次ぎ、重症心身障害児のための施設であるびわこ学園の建設を志向することになる。一九五〇年代における実践の目的は、社会への適応を目指した職業的自立であったが、実態は養護児が少なくなり始め、職業的自立が困難であるとされていた重度の障害児の割合が増えてきていた。そのため、学園では障害児の生活と教育への取り組みが中心的な課題となってきており、子どもの変化に応じた実践が求められていくことになる。

2 糸賀の障害児観の変化と保母の重度知的障害児への実践

第Ⅱ期当初の実践では、養護児と障害児との共同生活の開始や、これまでの実践の成果をつうじて学園全体での統一したカリキュラムが目指されるようになった。その目的は〈自主的に社会に適応し、自分のまわりに正しい社会を形成していくこと〉(16)に置かれ、生活指導では、重度知的障害児に対しても基本的な生活習慣を身につけることに焦点を当てた指導方針が立てられた。

近江学園のなかの重度知的障害児を取り出して、「終身の保護」を目的とした落穂寮が一九五〇年に建設されたが、その実践のなかで、最重度である「白痴児」について教育可能であるという認識を保母は得ることになる。この頃の保母の基本的な生活は変わらず、子どもと起居をともにしており、世話を基本としていた。その一方で、生活指導の目的やカリキュラムが決まってくることに伴い、指導の目的をもった関わりが増えてきており、子どもの変化していく姿をとらえられるようになってくる。保母はただ単なる世話のみでなく、目的をもった指導者へとその役割が明確になってきた。

落穂寮の当初の目的は、〈白痴・重症痴愚児の指導の根本は、出来るだけ人の手を借りずに、身の回りのことを、自分で処理し得るように訓練し、之を習慣化する所まで行うことにある〉(17)とされていた。そして、この意味で子どもの生活全般が教育内容であり、すべてが生活訓練であると捉えられていた。

落穂寮一年目のまとめで保母は、生活のなかで生まれてきた遊びのなかでの子どもの姿から、〈次第に集団的に活動し得るようになって来て〉おり、〈彼等に最も困難であると考えられている社会性〉ができていくことを見出していた。そして、これらの日常生活における子どもたちの変化から、〈私達は白痴或はそれに近い児童といえども進歩があることを確認し、教育可能であることをいいたい〉(18)と述べる。このように、保母は重度知的障害児への最も困難と思われていた社会性を身につける教育が可能であるという可能性を、生活の場面から見出していた。

糸賀は、こうした落穂寮での実践を基にして重度知的障害児についての見方を変革しつつあった。重度知的障害児への取り組みを通じて、その変化していく事実にふれることによって、教育をしても社会性は身につかないと思われていた「重症痴愚・白痴」の子どもに対して変化の可能性を感じるようになっていく。

そこで糸賀は、重度知的障害児に対し以下のような方針で生活指導を行っていく。それは〈基本的な生活面は枠にはめてみる。自分自身の健康と生命の安全を守るために、最も基礎となる〉ことを習慣として身につけさせ、それを〈自分自身の手で処理できるというところまで到達できれば、それだけ社会生活への適応度が高められる〉とした。その一方で、生活習慣や社会的意欲といったものは他律的である限りその名に値しないといい、他律的な指導が次第に自発的、主体性的なものに切り替わっていくための方策を探っていた(19)。このように重度知的障害児に対して従来までの社会性を身につけることは困難であり、終身の保護を目的とするという見方と異なり、変化が可能であるという判断のもとで外的な適応を目指した生活訓練が強化されていった。

この生活指導を、学園のなかでの重度知的障害児のクラスである「さくら組」でも積み上げていったことで、糸賀がこの子らへの見方を変えていく。糸賀は、これまでの取り組みから〈目に見えないようではあるが、この子どもたちにも、身体と精神の進歩はあった〉(20)としてその変化の可能性を見出した。このように、この頃の糸賀は重度知的障害児に対する教育の可能性を感じていたものの、そこでは社会に適応できるための行動の訓練に重点が置かれていた。

3 外面的適応から内面的適応への展開と、特殊性から普遍性・共感思想の形成

一九五一年度の年報によると、軽度の知的障害児を見ていたある保母は、その取り組みのなかで〈子どもたちの、日々の生活の中に、様々の欲求や興味の対象を発見しながら、それを最大限に利用しつつその上に社会人として要求されるべきものを、少しずつ積み上げてきた〉(21)と述べる。子どもの生活指導においては、日々の生活のなかの「子ども自身の欲求や興味の対象」を見つけ出すことを指導の出発点にするという認識であった。

また、一九五三年度の年報で落穂寮の保母は、生活指導の一環としての自由画の取り組みから、絵を描くことに集中する時間が長くなったことを示し、その理由を〈表現する楽しみを持った〉ことであるとして、〈子供の個性をのばし創作欲を助長する様心がけ、生活指導を行はねばならない〉とした(22)。これらは、指導の目的があくまで、社会に適応できるような自立した習慣を身につけることに置かれていたが、その目的に至るまでに外的な行動面のみをとらえるのでなく、子どもの内面的な要求から始めていこうとする思考があったといえる。

さらに、一九五二年度の年報において、子どもらが遊びのなかで自分たち自身で遊び道具を作る姿を見た保母が以下のように述べる。〈今までは、彼らの遊びといえば、模倣か、或は既製の玩具使用によるものであった。彼ら自身が、考えて創作したということは、どんなにか大きな喜びに違いなかった。次第に豊富に積まれて行く思想が、器用さを増しつつある手先を通じて発表せられていく姿に、私も、どんなに大きな歓びを感じた事か。顧みられなかった悲しい人間の心の中に、微かながらも灯火がともったような感じである。そのゆらめいている微光が、周囲の人々の心をどんなに明るくしていることか〉(23)。保母は、子どもが自らの内面的な目的意識にもとづいて行動し、変化していく姿を見て、子ども自身が感じた喜びに共感し、周囲の人々の心を明るくしたことを捉えていた。

このように子どもの内面的な思いを指導の出発点にしようとし、それに人間として共感する保母の言葉から、糸賀は障害のあるなし、軽重に関わらず人間の普遍性の思想をつくりあげていく。糸賀は、〈重症なものは、当然自活度が低いわけであ〉り、〈生涯の保証をするという覚悟が必要である〉が、〈不断の訓練による向上のよろこびを味わ〉うなど、それは〈われわれ普通人と称する社会人が、社会のさまざまな制約や保証の中で生活しているのと、本質的には何ら異なるものではない〉と述べる。そして、〈人間存在の根元的な事実に照らしてみれば、同心円的であるに過ぎない〉(24)として、保護の対象である重度知的障害児も、職業的自立が可能とされた軽度知的障害児も、障害のない子や社会人もともに人間として同心円的存在であると捉えている。

これまでの糸賀の思想と学園の実践は、職業的陶冶を目指してそれに応じた社会的自立や習慣づけを行ってきたが、重度知的障害児への取り組みを通じて、一九五九年には、〈子どもの外面的な適応だけでなく、その内面的な適応の態度、即ち子どもが心からやろうと思い、自分自身をみつめながら、困難をのりこえようとする態度をとりあげて指導をすることが望まれる〉としている(25)。

そして、糸賀の普遍性の思想を基礎にして、重度知的障害児の「さくら組」を担当した保母は、学園で行った旅行先での子どもの姿を見て、以下のように述べる。〈何の表現力ももたないが、生きることに歓喜している子どもたち。(略)白痴の子どもでもすばらしい生命を持っているということは、心ある人間の胸からさらないであろう〉とし、重度知的障害のなかにある人間としての生きる喜びと生命への共感が語られている。さらにそのことが〈今はじめて彼らによって生かされている自分に気づくことができた。私の心のひとつの革命でもある〉といい、子どもによって保母自身も生かされているという相互に支え合う関係にあるという思想をもつにいたっている(26)。

上記までのような実践の積み上げのなかで、糸賀は障害児のなかに人間としての普遍性をみることによって、子どもの思いに共感することの重要さを説き、思想を深め、「人格的・発達的共感」という概念が形成されていく。それは〈どのように障害の重い者とも、「人間の人格性」という一点において共感しあい、高め合うことを、すべてのとりくみの基礎にすえようとする思想〉(27)である。つまり、どのような重い障害を抱えている子どもであっても〈だれひとりの例外もなく、感ずる世界、意欲する世界をもって〉おり、〈どのような生き方をしたいと思っているかを知り、語り合い、触れ合い、お互いにより高い生き方へと高められていくような指導〉(28)が必要だとした。

一九五〇年代後半になると、生活指導の視点に社会的適応の訓練を行うとともに子どもの「内面性」への志向や「自主性の涵養」という方向性が見られ、人間らしい生活を営むための社会的自立や人格形成が目指されていく。生活指導は、従来の身のまわりのことは全部自分でできるようにする、という目的を持ちつつも、それが人間らしさや人格形成に寄与するものとして捉えられていく。こうした実践の目的に照らして指導技術も形成され始めていく。

保母は、当初から重度知的障害児への教育の可能性を見出しており、生活習慣を訓練するうえでも、内面的な欲求や表現する楽しみなど子どもの主体性を重視する視点をもっていた。そのような実践を展開するなかで子どもの変化と子ども自身が感じている思いに共感することができてくる。糸賀は、そうした実践の事実から特殊な存在とされていた重度知的障害児を人間として同心円的であるという普遍的な存在として捉えるようになる。

さらに、糸賀が人間としての普遍性を捉えつつ、子どもの内面性を見つめることを通じて、人格的・発達的共感の思想として深めることになる。そのことで、保母の役割として人格的な共感を大切にする生活指導が求められることになり、保母はそれに応じた経験と力を必要とされていった。これは、保母の仕事や役割が以前までの「母代わり」による子どもの世話と情操陶冶に留まらないものになっていることを示している。保母は、生活習慣を身につける上で、子どもの人格的・発達的共感の視点をもった生活指導を行う、教育者としての専門性の確立を必要としていた。

三.第Ⅲ期 発達保障思想の形成と実践の展開

1 第Ⅲ期における学園の状況

近江学園では一九六〇年代を迎え、子どもの年長・重度化の進行という対象児の変化と新たな施設の建設に伴う職員の相次ぐ転出により、指導方針の継承と発展が課題となっていた。特に学園内の医局で取り組まれていた重症心身障害児への取り組みが課題となり、重症心身障害児を対象としたびわこ学園の開設に向けて、今後の実践における新たな展開を必要としていた。そこで指導体制を検討する自主的な集まりである「土曜会」が一九六一年に開催され、これまでの実践での積み上げや思想、研究による成果をもとに議論がなされ、発達保障の観点に立った新たな体制が編成される。これによって、これまでの知能指数という見方を廃止し、精神年齢による見方を採用するようになった(29)。

この時期はまた、実践と労働・研究運動が一体となって取り組まれていく。新たな指導体制を確立してから、その体制を保障するための労働条件が議論されていく。一九六三年八月に滋賀県職員労働組合近江学園班、一九六五年五月には近江学園分校に勤務する教員で滋賀県教職員組合近江学園分会が発足する。そして、一九六六年六月、近江学園に勤務する大木会職員で日本社会事業職員組合近江学園分会が発足し、同一一月に園内三組合による近江学園職員組合協議会が結成される。

一九六七年の勤務実態調査では、週労働時間が園長の糸賀が週九二時間、職員も平均八〇時間をこえていた。こうした労働組合運動のなかで、これまで保母をはじめとする女性職員が結婚時に退職をするという慣例であったが、一九六八年三月には、結婚した女性職員の通勤勤務(四、五月と続き、合計三名)が実現する。さらに、研究活動も活発になり、学園内部でも研究会がつくられ、一九六六年四月に心身障害者福祉問題総合研究所を開設し、一九六七年八月には全国障害者問題研究会が結成される。このようにこの時期には実践をもとに労働運動や研究活動が盛り上がっていった(30)。

2 糸賀の発達保障思想と保母の実践

糸賀は、近江学園が重症心身障害児施設びわこ学園の建設に取り組むにあたって、新たな実践の思想・理論の必要性を自覚していた。そこで、これまでの学園の実践や思想の展開を総括し、ヨーロッパの視察や土曜会での議論を経て、「発達保障」という理念を形成する。

〈重症児が普通児と同じ発達のみちを通るということ、どんなにわずかでもその質的転換期の間でゆたかさをつくるのだということ、治療や指導はそれへの働きかけであり、それの評価が指導者との間に発達的共感をよびおこすのであり、それが源泉となって次の指導技術が生みだされてくるのだ。そしてそういう関係が、問題を特殊なものとするのでなく、社会の中につながりをつよめていく契機になるのだということ。そこからすべての人の発達保障の思想の基盤と方法が生まれてくるのだということをつかんだのである〉とし、そこから、どんな重い障害をもっていても個性的な自己実現をしていることを示し、〈この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬ〉とした(31)。これ以降、近江学園ではこの〈発達の共通性・無限性の理論に支えられた新しい権利創造への思想〉(32)を基盤に実践をすすめていくことになる。

そして、生活指導の目的や評価が発達要求を組織化するものとして捉えられ、その指導方法が追求されるようになる。これまでの「社会に役に立つ」という「マンパワー」や「教育投資」の思想を克服し、発達の無限の可能性を充実させていくための生活が目指されるようになった(33)。

そこでの指導の立場は〈現在ある要求をそのまま認めるというのではなく、あるべき正しい社会的要求を育成していくという立場にたつことが必要である。そのためにはまずこどもの社会的人間としての発達的可能性を指導の成果をもとにつきつめていかなければならない。その成果のなかにこどもの側の要求をよみとらなければならないのであり、またこの指導の成果がすなわち社会的要求の出発点にならなければならない〉(34)とされた。こうした思想と方針のもとで実践が展開されていき、保母は以下のような生活指導を行っていった。 

保母は指導の目的を〈発達段階が同じであるということを基礎において、この中での切磋琢磨により、こどもたちの集団的な自主性の芽生えをねらい〉として、〈こどもたちの中に入って、かれらの悩みや興味に共鳴しながら、ひとりひとりのこどもたちに心の面でのふれあいを深めて、その上にたつ指導をしなければならない〉(35)とした。また、ある保母は、〈生活集団の指導は、児童たちが生活していくうえで、その生活の種々の活動に積極的に参加していく過程を通じて、生活的共感をもち、発達の課題を一つ一つ克服せしめることである〉(36)と述べる。

この時期において、これまでの保母の実践とそれらにもとづいて形成されてきた糸賀の思想とが、発達的共感とそれを土台にした指導技術の形成として統一され、発達保障の理念とそれに基づく指導体制・評価が実現していく。保母は生活指導の内容を発達的視点から捉え直し、その目的や指導技術を形成していき専門性の追求とともに、労働者としての地位も確立していく。

3 第Ⅲ期における保母の生活とその専門性の確立

Ⅲ期は従来の保母に対する意識が変わってきており、宿直制が導入されたり、労働組合の結成によって労働条件が明らかになり、生理休暇や結婚をしても働き続けるための要求をしたりと、労働者としての意識が形成されていく。実践においても保母の教育者としての専門性を高めていくことが目指されていく。保母の勤務内容は、生活・食事・学習指導に加え洗濯、食器洗い、居室整備等であり、実質の労働時間は一六時間余りであった(37)。

一九六三年の『近江学園年報』で、保母は自分たちの実態を以下のように述べる。〈自分たちの個室はなくて、文字通り四六時中子どもといるわけであるが、うけもった二〇人という子どもの数は、保母としてのまともになしうる数ではなく、また部屋としての雰囲気をつくることもできなかった。ただ仕事に追われとおして、静かな自分のための時間ももてずに過ぎた日が多かった。おとな自身がこどもたちのどんな問題も、つねに、おおらかにうけいれてやることのできる情緒の安定が必要であると思うのに、こどもたちの些細なことも、心のいらだちをおさえることのできないことも多かった。これは一つには勤務の体制に左右されることも大きく、現状の中からでもなんとか考えて、職員各自が平等に分担し、学園自体、勤務の近代化を考え直して、こどもたちにつねによりよいタッチがなされる状態を考えていかなければならない〉(38)。

新しい指導体制に変更になった直後であり、保母の仕事は多忙を極めていた。しかし保母はこの実態をそのまま認めていたわけではなく、保母の役割を十分に行うためにも、学園と勤務の近代化が必要であるという認識であった。  糸賀は、一九六六年にびわこ学園の経験をつうじて、保母について〈保育という世界ではどんな保母でも母に勝るという一面をもっています。それが専門職としての保母の技術だといえましょう〉と述べ、専門職としての保母の役割について保育という専門性を認めている。さらに、保母の資格だけでは重症心身障害の子らを支えきれないとして、療育に必要な資質を備えた「療育婦」(仮称)の資格を設け、その資格に応じた処遇を確立する必要があるとした(39)。ここには、専門職としての保母という認識があり、その背景には重症心身障害児を支えるためには専門的な知識と経験が必要である、という現実に迫った状況があった。

第Ⅲ期には、糸賀の保母観についての変化が見られるようになっている。その背景には、保母自身の認識が「母代わり」と捉えていたものから、専門職としての意識への変革があり、また、学園の重症化する子どもに対して療育を行うためには、そのための専門的な知識や経験が必要とされた実態があった。さらに、労働組合運動も力を持ってきており、専門性に裏付けられた労働者としての捉え方がされるようになってきた。こうした保母による専門性と労働者性の追求のなかで、糸賀の保母観も変化してきたといえよう。

まとめ

糸賀の思想は、重度化していく学園の子どもと、それに試行錯誤しながら実践の糸口をつかもうとする学園の職員たちが実践のなかで見出した子どもの姿から、形成されてきた。そこでは、実践の事実を発見し、試行錯誤しながら子どもの生活を支え続け、四六時中子どもと一緒だった保母の役割は重要であった。しかし、保母の社会的な評価や実態は、その役割や責任に比して低い状態に置かれていた。本論では、近江学園における保母に焦点を当て、その実践のなかで糸賀の思想につながるものを明らかにしてきた。そして、糸賀の思想の形成とともに実践が発展していく過程を示し、そこから保母の役割や重みを再考してきた。

糸賀の思想は、重度化していく子どもの対応のなかで行われてきた保母らの実践を土台にしており、実践において見出してきた子どもの変化や姿をもとに形成されてきた。その思想の深まりのなかで保母の実践も発展してきた。この現場と思想、理論との往復関係が糸賀の思想も保母の実践も発展させていく力となっていた。糸賀の思想は、政策的動向に影響を受けながらも、実践の事実を把握することによって政策のなかにとどまらない実践や価値観を生んでいくことができた。政策的な動きと離れ、独自の思想を形成し得たのは、現場の実践と一体となってその思想を変革してきたことにある。

さらに、思想と実践の発展のなかで、保母について糸賀の認識や保母自身の見方も変化していく。糸賀は当初保母を「母代わり」と捉えていたが、晩年には専門職としての位置づけを明確にするようになる。その背景には、生活即教育という創立の理念のなかに、教育的視点をもっていたことで、母以上の役割(専門性)を追求する契機を含んでいたことがあり、糸賀の思想の深まりとともに保母の役割が変化することで専門性が明らかになってきたことがあった。  

保母は、重度の障害児をただ単に生きさせるだけでなく、その子の内面性をみて、要求を見つけ出し、それを実現する手だてを考える必要があり、そのためには子どもの実態に応じた専門的な関わりが求められることなった。こうした経過をつうじて、保母自身も母代わりであるから子どもと四六時中生活することを当然とする見方から、その専門性を明確にすることによって、自分たちの役割や地位を捉え直していく。保母は自らの専門性を追求し、それを根拠に労働者としての地位も求めていくことができた。

本論では、保母に焦点を当て、糸賀の思想と関連する言説を取り上げ、思想と実践との発展過程をみてきた。そして、それを通して保母の役割も変化してきたことを示唆した。今後は、保母が生活における実践のなかで、どのような試行錯誤や議論を行ってきたか、その実際を明らかにすることと、自身の役割や専門性をどう捉えてきたかをより詳細な形で示すことが課題であると考えている。

参考文献
  • 糸賀一雄『福祉の思想』(日本放送出版協会、一九六八年、172頁)。
  • 前掲1(175頁)。
  • 当時の障害児福祉・教育政策における障害児観は以下のようなものであった。一九五三年の文部省事務次官通達「『教育上特別な取り扱いを要する児童生徒の判別基準について』において、精神薄弱児は『精神発育が恒久的に遅滞』したものであるという認識」であり、IQの分類によって、重度の「白痴」は教育対象外とされた(田中昌人「全障研の結成と私の発達保障論」全国障害者問題研究会編『全障研三十年史』全国障害者問題研究会出版部、一九九七年、453頁)。
  • 「期待される人間像」に表されたように、人的能力開発政策が前面にうちだされてくる。教育は、〈子どもの発達にではなく、経済発展の課題に従属し、それに貢献する方向で進められる〉状況にあり、特殊教育においても、〈経済成長の末端の単純労働を担う限定された能力の養成〉が期待されていた(玉村公二彦「障害児教育実践の構図」茂木俊彦・清水貞夫監修玉村公二彦・峰島厚編『講座 転換期の障害児教育③〈障害および障害者の学びと生活〉』三友社出版、一九九九年、5~6頁)。
  • 糸賀一雄著作集刊行会「年譜・著作目録」『糸賀一雄著作集Ⅲ』(日本放送出版協会、一九八三年、514~515頁)。
  • 糸賀一雄『この子らを世の光に』(柏樹社、一九六五年)。『糸賀一雄著作集Ⅰ』(日本放送出版協会、一九八二年、53頁)。
  • 清水寛『発達保障思想の形成』(青木書店、一九八一年、171~172頁)。
  • 糸賀一雄「生活即教育」『南郷』第三号(一九四七年)。前掲6(222頁)。
  • 清水寛によれば、近江学園設立当初、糸賀が「戦災孤児・生活困窮児と精神薄弱児を戦後の児童問題」として捉え、戦争によって大きな犠牲を受けたひとりである児童のための事業が「祖国再建をめざす社会的活動の一環」として考えられていたことを示し、子どもを保護するだけでなく「教育・福祉・医療・研究の対象」として位置づけ、とくに教育の立場を重視したことに注目している。「たんなる保護・収容施設ではなく、教育的施設としての性格」をもっていたからこそ、後の独自の福祉理念の創造が可能となったとする(前掲7、194頁)。
  • この点に関してはいくつかの先行研究(前掲7や、[蜂谷、二〇一二年])でも指摘されている。
  • このような障害児観に陥った原因を先の清水は、〈障害の重い子どもたちにたいする伝統的・支配的な能力観・発達観を脱却しえないでいたこともさることながら、その「提携」の中心的形態をいわゆる「職業的提携への陶冶」に収斂させていったこと〉にあるという(前掲7、200~201頁)。
  • 「普通児と精神薄弱児との提携」(一九四九年)。前掲6(316頁)。
  • 前掲6(54頁)。
  • 前掲12(398頁)。
  • 「所管事項の説明と要望」(一九四九年)。『糸賀一雄著作集Ⅰ』(398頁)。
  • 岡崎英彦「近江学園のカリキュラム」『近江学園年報』六(近江学園、一九五四年、54頁)。
  • 落穂寮「寮児の生活」『近江学園年報』三(一九五一年、257頁)。
  • 初田春枝・奥井佑子・小牧唉子「白痴児童の自由遊び」『近江学園年報』三(一九五一年、273頁)。
  • 糸賀一雄「近江学園『さくら組』の記録」(一九五四年)。『糸賀一雄著作集Ⅱ』(日本放送出版協会、一九八二年、208~216頁)。
  • 前掲19(202頁)。
  • 中村良子「精神薄弱児に於ける身のまわりの自立について」『近江学園年報』三(一九五一年、99頁)。
  • 初田春枝「寮における自由画の考察」『近江学園年報』五(一九五三年、241頁)。
  • 藤井志津子「昭一の生活」『近江学園年報』四(一九五二年、111頁)。
  • 「カリキュラムの背景」『近江学園年報』六(一九五四年、23頁)。
  • 糸賀一雄「精神障害児の保護と教育」(一九五九年)。『糸賀一雄著作集Ⅱ』(305頁)。
  • 近江学園研究部「白痴の子どもをめぐって」『近江学園年報』七(一九五五年、101~102頁)。
  • 前掲7(213頁)。
  • 糸賀一雄「当面の諸問題」『近江学園年報』八(一九五八年、16頁)。
  • 田中昌人「全障研の結成と私の発達保障論」全国障害者問題研究会編『全障研三十年史』(全国障害者問題研究会出版部、一九九七年、455~457頁)。前掲5(535~537頁)。
  • 前掲29『全障研三十年史』(509~522頁)。前掲5(548~551頁)。
  • 前掲1『福祉の思想』(172~177頁)。
  • 前掲7『発達保障思想の形成』(230頁)。
  • 糸賀一雄「指導体制評価についてのわれわれの立場」『近江学園年報』一一(一九六五年、7~8頁)。
  • 田中昌人「研究部活動」『近江学園年報』一〇(一九六四、268~269頁)。
  • 原田俊子「第三教育部の生活をかえりみて」『近江学園年報』一〇(一九六四年、217~223頁)。
  • 戸島紀美「生活グループの活動―一 部屋経営の仕事を分担させる指導を通して」『近江学園年報』一一(一九六五年、86頁)。
  • 「滋賀県への要望書」(一九六六年)。前掲5(433~434頁)。
  • 原田俊子「第三教育部の生活をかえりみて」『近江学園年報』一〇(一九六四年、217頁)。
  • 糸賀一雄「国立重症心身障害児施設の誕生を機にねがうことのひとつ」(一九六六年)。前掲5(438~439頁)。
黒川 真友立命館大学大学院社会学研究科 博士前期課程2回生

社会福祉法人おおつ福祉会の勤務を経て、立命館大学大学院社会学研究科博士前期課程2回生。

黒川  真友