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三浦了『私と糸賀一雄先生の出会い。生誕100年に向けて伝えたいこと』(1/2)

  • 三浦 了社会福祉法人大木会 顧問
三浦了『私と糸賀一雄先生の出会い。生誕100年に向けて伝えたいこと』

糸賀先生と同時代を生き、糸賀先生をとてもよく知る大木会顧問 三浦 了さん。50年前に糸賀一雄氏と衝撃的な出会いを果たし、近江学園やあざみ寮にて、先駆的な福祉事業を実践してこられた三浦さんが、いま改めて、糸賀一雄氏生誕100年を迎えるにあたり、伝えたい思いを存分に語っていただきます。糸賀一雄氏の人間味溢れるエピソードや、障害のある子どもたちとのコミュニケ―ションについて、様々な話題が展開されます。

糸賀先生との出会い

アサダワタル

今回、様々な方々に糸賀一雄さんにまつわるエピソード、福祉の実践についてお話をして頂いているんですけれども、三浦さんが最も糸賀一雄さんのお近くにおられた方として、お招きさせて頂いたわけなんです。まず簡単に糸賀一雄さんとの最初の出会い、また近江学園への就職などについて、少しご紹介いただけたらと思います。

三浦了

私は滋賀県彦根市のお寺で生まれました。大谷大学で、特に仏教学を専攻いたしました。卒業すれば、学校の先生になるか、あるいはお寺の住職になるか、という思いでおりましたら、近江学園が始まってからの4〜5年、糸賀先生たちと一緒に働いていた従兄弟がございまして、その従兄弟の福永が「近江学園というところへ勤めないか」と。

アサダワタル

まさにスカウトをしに来たような感じですね。

三浦了

従兄弟がそういう所で働いていたということも僕はまったく知りませんし、近江学園という言葉もその時初めて聞いたんですね。「そこの園長の糸賀一雄先生っていうのは、人間的にも非常に立派やし、学問的にも非常に博学な方やから、一度その先生に会いなさい。君のこれからの人生にとって、非常に大きなプラスが僕はあると思う」ということで、その時に初めて近江学園の坂を登って、そこで糸賀先生とお会いしました。昭和32年の1月です。寒いときでした。それで、糸賀先生にお会いして。実は後で、非常にお忙しい先生やということが分かったんやけどね。でもこの初対面の僕に結局3時間近く、色んな話をしてくださったんです。そのなかで「近江学園という学園はね」とか、あるいは「戦災孤児と言われている子どもたちはね」とか、「知的障害をもった子どもたちの対応はどうしたらよいか」という話は、ほとんどして頂いてないんですよ。

アサダワタル

あ、ないんですね。そうではない話を、様々3時間。

三浦了

そう。自分が生きてきた柱を僕に話してくれたんだろうと、後で思いましたね。例えば、「伝教大師、最澄さんは『国宝とは人材なり、人材とは、一隅を照らすものなり』と言っておられる。大したもんだねぇ、君」と仰る。うーん、どういうことを糸賀先生は仰ってるのかなぁと。「僕がね、一人で近江学園の中でやってる仕事なんて大したことないですよ。一人の人間がやる仕事なんて大したことない。しかし、一つの隅っこを、一生かかって照らし続けるということは大したものですよ。伝教大師はそれが国宝やと仰ってるから、僕も国宝の端くれになれるかなぁと思って、頑張ってます」という話をされて。これがねぇ、僕は初めて聞いた話やけど、感動しましたね。

三浦了

それともう一つ、最澄さんに続いて同じことを言うけれども、「比叡山の講堂の入口の柱のところにある大きい大きい額、あれは扁額っていうらしいけど、その額に『論湿寒貧』と立派な字で書かれてある。人間は三分の寒さと三分の湿気と、そういう環境で育った方がいいんだということで、比叡山で修行をするお坊さんたちの日々のモットーというか、修行の条件の第一歩やということで、書かれてある。僕はあれを見て本当に感動したねぇ。で、近江学園をつくるときは、近江学園の中で働く人たちの一つの柱を是非立てるべきやという風に思いました」というお話をして頂きました。

近江学園職員3条件

三浦了

比叡山は「論湿寒貧」やけど、近江学園を始めるについては、近江学園の職員たちにどうしても守ってもらいたいことがあろうと。それが後に「近江学園職員3条件」っていうものなんです。1つには「不断の研究」。一生懸命勉強しましょうと。それから2つ目は「耐乏生活」。3つ目は「四六時中勤務」。

アサダワタル

文字通り職員の皆さんがずっと近江学園で研究、日々勉強されながら、貧乏に耐え、そしてまさにずっと動き続けているというような、そういう状況だったっていうことですか?

三浦了

はい。この「四六時中勤務」っていうのはね、子どもも職員も、そして職員の家族も、みんなが一緒になって、この1日1日をどうしたら豊かにしていけるかということを考える、それからそれを家族も一緒に実践をしていく。もちろん人間も動物ですから、夜はやっぱり寝ないかんし、休憩するときは休憩せないかんけど、気持ちの上では「四六時中勤務」やということで、全部住み込み。

アサダワタル

ああ。

三浦了

で、「私は家が近いから通います」っていうことはやめましょうと。子どもたちと一緒に同じもので生活していきましょうというので、「四六時中勤務」というのは出てきたわけです。それから「不断の研究」というのは、しょっちゅう勉強しましょうということですが、これはまぁ、なかなかしんどかったですね、個人的には。しんどいことでした。

アサダワタル

まさに園長の糸賀一雄先生自身がとっても勉強家で、いろんな哲学にも精通されていたということで、そのことを受けて職員の皆さんも、様々な書籍を読んだりとか、福祉についての事例を研究されてきたというのは、先生の著作集を読んでいても分かるんですけれども。三浦さんも色んな文献などを職員の皆さんで回されあいながら、日々働きながら、そして寝る暇も惜しんで勉強されるっていうような日々だったんでしょうか。

糸賀先生の“仲間”になること

三浦了

ただそれは近江学園に入ってからのことですけど、例の面接にて3時間近い話を聴いた後で、私はもう、俗にいう洗脳されたというかね。生まれて初めてお会いした糸賀先生から、こんな話を聴くとは思ってもみなかった。「自分でこの近江学園に間に合うかどうかわからんけども、もし近江学園で私で間に合うことがあったら、使って頂けませんでしょうか」という風にお願いをしたら、まぁいくつか殺し文句みたいなんがあってね。「そうですか、あなたは私たちの仲間になってくれますか」って言われてね、仲間って大先生のところへ勉強に来たいと思ってるのに、仲間になってくれますかって言われてね、仲間意識っていう言葉があるけど、そんなもう畏れ多い、もったいない話やなという風に思いました。まぁ冒険みたいなもんですよ、近江学園で僕が具体的にどういう仕事をするのかって言うたら何も聞いてないし。

アサダワタル

ははは。殆ど面接で話したのはまさに人生哲学のようなことがメインだったわけですもんね。

三浦了

結局、それやのに私も「近江学園、それじゃ勤めましょう」というのは、結局糸賀一雄に惚れ込んでね。それでこの人のもとでなら、自分の一生を差し上げてもいいと、その時思いました。それで、近江学園へ勤めることになりました。

アサダワタル

なるほど。今日は、三浦さんが近江学園、そして近江学園園長の糸賀一雄先生に出会って、就職を決意される様々なエピソードを今お聞かせ頂きました。次回、この糸賀一雄生誕100年記念事業へ向けての想いであるとか、さらに糸賀先生のエピソードについて、皆さんにも聴いて頂きながら続けていきたいと思いますので、引き続き、よろしくお願いいたします。三浦さんありがとうございました。

三浦了

はい。どうもありがとうございました。

※1 近江学園

滋賀県大津市の知的障害児、孤児のための収容施設。1946年に、糸賀一雄・池田太郎・田村一二により創立。

※2 「論湿寒貧」

夏は湿気が高くて蒸し暑く、冬は厳しい寒さの比叡山の環境にて、仏法の論じて自らを磨き、清貧に甘んじて修行をすること。また「論湿寒貧」の扁額は大講堂ではなく、「大書院(通常は一般非公開)の中」に掲げられているとのこと。

三浦了社会福祉法人大木会 顧問

1928年滋賀県彦根市生まれ。大谷大学文学部仏教学科卒業、中学校及び高等学校教員免許取得。1957年、研修生として近江学園に勤務後、翌年より大津市立南郷中学校兼近江学園児童指導員となる。約10年間、糸賀氏とともに近江学園、あざみ寮にて障害のある児童・成人への支援を実践する。その後、あざみ寮寮長、もみじ寮寮長兼務、社会福祉法人大木会理事長を歴任。現職は大木会顧問。

三浦了
パーソナリティ アサダワタル

1979年大阪生まれ。日常編集家。公私の狭間、異分野間を漂泊しながら、既存の価値観を再編集する表現を、音楽、文章、プロジェクトを通じて創作・提案。2002 年、バンド 越後屋のドラマーとして、くるり主宰レーベル「NMR」より2枚のCDをリリース。その後、音楽を主体に各地でソロライブ、プロジェクト、ワークショップを展開しつつ、2013年、ドラムを担当するSjQ++にて、アルスエレクトロニカ準グランプリ受賞。著書に『住み開き 家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)、『アール・ブリュット アート 日本』(平凡社、編著)『編集進化論 editするのは誰か』(フィルムアート社、共著)等。『ソトコト』や『マガジン航』等で連載。神戸女学院非常勤講師。

アサダワタル

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